隔たり

私たちの塾には「特別」という時間があり、
その時間は、指導者が「今、生徒達にこれが必要だ。」
という内容をその都度選んでやっていきます。

授業の中で、
子どもたちの理解が足りないと感じたところや
テストなどで出来の悪かった所を
この時間を使って復習するために
各科目の授業とは別に設けている時間です。

この授業で使うために
小6の国語の問題を選んでいたのですが、
最近「これがぴったりだ。いい問題だ。」
と思った問題が、
非常に難しい問題だったりするのです。
これが最近結構多い。

入試問題集で
「これがいい問題だ。授業で使おう。」と思ったら
灘中やラサール中の入試問題だったり、
全国の難関中の問題だったりするのです。
もちろん、そんな問題が解ける生徒はほとんどいませんので、
授業で使うことは出来ません。
結局別の問題を使用したのですが、
最近結構こういうことが続いています。

子どもたちが出来る問題の難易度と
自分が出来ると思っている難易度に
隔たりが出来てきているのです。
こんなことがあって
ふと昔のことを思い出しました。


私は約10年あまりこの仕事をしています。
国語と社会を指導していますが
元々専門は歴史です。
ですから、一番指導で自信を持っていたのは歴史なのですが、
新人の頃、ある生徒から
「先生の国語はよくわかるけど、社会はわからん。」
といわれました。
自分では国語以上に自信を持って教えていただけに
「どうしてなのだろう?」とあれこれ考えて、
悩んだのを覚えています。

何年かして、経験を積みいろいろな人に相談して、
だんだんとその理由がわかってきました。
その理由というのは
「自分が歴史を得意だから、出来ない子のことをわかっていない。」
ということです。
自分はわかるから、わかっていない子が
理解できていない部分を簡単にすすめたり、
理解できていないこと自体を私がわかっていない。
そういうことがあったということです。

国語の場合、自分が専門ではないだけに
自分自身が社会人になって勉強し直し、
「自分がミスしたら、子どもたちもミスするかもしれない。」
そういう気持ちで指導していたのだと思います。
それが子どもたちにとってわかりやすい指導になっていた。
そういうことではないかと思います。

今日、国語の問題を選んでいて、
ふと、そのときのことを思い出しました。
あの出来事があってから、
「子供の気持ちを考える。」ということに
気を配ってきたつもりですが、
もしかしたら最近それが疎かになってきているのかもしれない。
そう感じました。
自分では子どもたちの状態を把握して指導しているつもりで、
実はわかってない、そうではないかと思い、ちょっと怖さを感じました。

昔、苦い経験をしたことも、時間が経つとつい忘れてしまう。
そういうことの無いよう、常に気を配っていないといけませんね。

「授業のための授業」や「指導のための指導」じゃ意味がないですもんね。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-04-08 22:22 | 塾の仕事を通じて
<< 轍(わだち) 桜 >>