「祈る」ということ

度々書いていますが私は広島の人間です。
広島で生まれ育った子供は、必ず(最近は違うようですが…)学校で
「平和教育」を徹底して習います。

広島市の花は「キョウチクトウ」
「百年間は草木も生えない」と言われた原爆後の広島に
最初に咲いたのが「キョウチクトウ」の花、
それが市の花の由来だと習ったのを今でもはっきり覚えています。

原爆が落とされた8月6日は、毎年学校の登校日でした。
「平和公園」で行われる「平和記念式典」にあわせて学校で黙祷します。
そして、みんなで「なつやすみ帳」の原爆ページをみんなで勉強するのです。
今は、かなり変わってしまったようですが、私の子供の頃はそうでした。

そういう広島ですから、8月6日が近づく今の時期になると
だんだんとテレビや新聞、ラジオなどでも
「祈る」とか「祈り」という言葉が
頻繁に使われるようになってきます。
「平和の祈り」「平和の誓い」そんな言葉が聞かれるようになると
「また、原爆の日がくるんだな」と感じるのです。

ふと、ふり返って考えてみると、
自分は最近「祈る」ということをしていないなと感じます。
それに今思うと、数年前までは「祈る」ということがどういうことなのか
実感としてはわかっていなかったとも思います。

世界のどこかで核実験が行われると
広島では被爆者団体の皆さんが
抗議の座り込みをします。
広島市長はその都度抗議の文書を送ります。
私には正直言って最近までそれらの行動が
「無駄」にしか思えなかったのです。
何度抗議をしても無視されるのがわかっている。
なのになぜ意味がない行動を繰り返すのか?
そんな思っていたのです。

ですが今はそういう行動をしておられた方々の気持ちが
わかるような気がします。
自分なりにですが、「祈る」という言葉や行動の意味が
わかるようになってきたからです。

2001年の元旦に私の父がガンで亡くなりました。
私はそのころ結婚が決まっていて、
父が入院したことでそれが延期になっていました。
「父が元気に回復し、結婚式に出て欲しい。」
そう思って延期をしてきたのですがそれはかないませんでした。

その後結婚し子供もできて、
仕事では校舎責任者として管理職になりました。
家庭でも仕事でも、だんだんと生前の父の立場に近づくにつれて、
「こういうとき父もきっとこう思っていたんだろう。」とか
逆に「こういうとき父はどんなことを考えたのだろう。」と
あれこれ考えることが多くなりました。
「父と色々話したい。」そう思うことが多くなってきました。
でもそれはもちろんかないません。
そんなことがあってから、自分は「祈る」という言葉や行動を
理解できるようになってきたように思います。

人間に出来ることには限界がある。
でも、時にはその限界を越えることを願ったり望んだりしてしまう。
それを叶えるのは無理とわかっていても、
気持ちが抑えきれなくて
「祈る」という行動につながるのだろう。
いまはそんな風に理解しています。

でも、今の世の中って
「祈る」必要がどんどん少なくなっている社会だなとも感じます。
「願って叶うこと」だけを追い求めて、「無理なこと」はあっさり諦める。
そんないい意味でも悪い意味でも「あっさり」とした世の中になってしまっているように感じます。
何となく淋しいですね。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-08 23:21 | ニュースについて
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