<   2006年 03月 ( 14 )   > この月の画像一覧

心のエネルギー

昨日「しばらく更新できないかもしれない。」
と書いておいて、早速更新です。
気が向けばどんどん書くのですが、
気が向かないと全く書きません。
この気持ちのムラが私の欠点なのですが、
なかなか直りません。
今後も不定期な更新が続くと思います。

仕事柄、よくいろいろな文章を読む機会があるのですが、
自分で好んで買う本もありますし、
国語のテキストで出てくる文章もあります。

数年間は同じテキストを使うので
国語のテキストの中で出てくる文章は
何度も何度も見かけることになります。
また授業の題材ですから、
家で趣味で読む本の数倍気を入れて読みます。
ですから、心に残る文章も多いのです。

その中でも特によく見かけるのが河合隼雄さんの文章。
「読むクスリ」などの作品で知られている随筆家です。

その河合さんの文章の中に
「心のエネルギー」というものについて
書かれているものがありました。
(ちなみに小学5年生のテキストに収録されています。)

要約すると
人間には「身体的なエネルギー」とは別に
「心のエネルギー」というものがある。
精神的に疲れるというのは
「心のエネルギー」を使って消耗することだ。
心のエネルギーには量があって、
使うと消耗するから、節約に努めるようになる。
ところが、普段「心のエネルギー」をほとんど使わないような人
(筆者は例として役所の窓口の人を挙げています。)
の方が、元気が無く見た目にも疲れていて、
もの凄く活動的で仕事でも趣味でも、
休み無く活動しているような人の方が
元気で活発で楽しそうに見える。
これはなぜなのか?

それは楽しみややり甲斐を見つけることで
新しい鉱脈を見つけるように
「心のエネルギー」そのものが増大するからではないかと
考えられる。
逆に言うと、楽しみややり甲斐のない人は
「心のエネルギー」が減少すると思われる。

こう考えると
「心のエネルギー」の節約ばかり考えず、
新しい鉱脈を見つけるように努めるべきで、
そうすると人より多く活動しても
それほど疲れないのではないか。
「心のエネルギー」は節約ではなく、
上手く流れるようにしていくほうが結果としては良い。

という内容です。


この文章を読んでいて
今まで思っていたことそのままだと思いました。
言葉は悪いのですが、
無気力な人間はとことん無気力で
活発な人間はとことん活発なのです。

塾の生徒の中にも、
もの凄く忙しいスケジュールで
生活している子供がいます。
週7日必ず何かの習い事があるという子もいます。

いつも時間に縛られて
とてもかわいそうだと思うのですが、
案外そういう子の方が元気で、
楽しそうなことも多いのです。

なぜだろうと疑問に思うのですが、
これは上の河合さんの文章を読むと
わかるような気がします。

「だからどんどん習い事をさせろ。」
ということではなくて
「子どもたちに熱中出来ることを見つけてやろう。」
ということなのです。
これは大人も同様なのではないでしょうか?

何かに熱中しているときは
私のような人間でも時間も疲れも忘れます。
こういうときは「心のエネルギー」が絶えず消耗し、
さらに絶えず補給されている状態なのだろうと思います。
だからあまり疲れないのですね。

子供でも大人でも何かしようとすると、
面倒がってやろうとしない人がいます。
これはとても損です。

大学生の時、私は大学祭の実行委員を3年間やりましたが、
これは大変な仕事でした。
授業の合間や、夕方や夜ずっと準備に追われますし
大金を扱うので、失敗したときの責任も重大です。
だから、ほとんどの人がやるのをいやがります。
私も元々は係をやるのをいやがった先輩に押しつけられたのです。
ですが、みんなで力を合わせ、最後までやり終えたときの充実感は最高でした。
この充実感を毎年味わいたくて、3年間も実行委員をしてしまいました。

今の仕事でも、大学時代ほどではないのですが
その充実感を味わいたいという思いがあります。
そのために、絶えず新しいことを考えるし、
型どおりの授業や指導はしたくないと思います。
それが、結果に現れることで、 新しい「鉱脈」が掘り出され、
新しいやる気がでてくるのだと思うのです。

「やるか、やらないか」で悩んだら、
まずやってみるべきです。
何か必ず得るものあります。
それが失敗や教訓かもしれませんが、
何もしないより遙かにいい。

文章を読んでそう感じます。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-30 00:04 | 塾の仕事を通じて

パソコン故障!!!

今日帰宅して、普段愛用しているパソコン、
アップルのiBookを起動しようとしたら作動しないのです。
スリープ状態から復帰させようとしても復帰しません。

焦りました。色々原因を考えてみたのですが
恐らく、電源アダプタがショートして通電出来ないのだと思われます。
困りました。

ちょうどヤフーのオークションでデジカメを購入し、
その連絡をしなくてはいけませんでした。
仕方なく職場に戻り、職場に置きっぱなしの
もう一つのパソコンを持ち帰って
所用を済ませました。

その後再びヤフーのオークションで
iBookの電源アダプタを入札したのですが、
無事落札出来るまで4日かかります。
もし落札出来なかったら、
もっと使用できない状態が続きます。

普段当たり前のように使っているのですが、
実際愛用しているパソコンが使えなくなったら
ものすごく困ります。
このブログの記事はともかく、HPの内容などは
パソコンが使えなくなったら、全くパーになってしまいます。
今更ながら、きちんと普段バックアップをとっていないことが悔やまれます。

今回は幸いもう一台パソコンがあるので、
最低限のことは何とかなるのですが
以前同じようにアダプタが駄目になってしまったときは
非常に困りました。
このときもたまたまネットの出来るゲーム機「Dreamcast」を持っていたので
これを使ってアダプタを購入したのですが、これは大変不便でした。
ゲーム機のコントローラで一文字ずつ入力するのは携帯メール以上に苦痛でした。

そのときは用心して、その後予備のアダプタを購入したのですが、
今のパソコンに買い換えてから予備のアダプタを買い忘れていたのです。
過去の教訓が全く生かされていません。進歩がないですね。

当分の間、職場のパソコンを家に持ち帰る日々が続きそうです。
しばらく更新が滞る日が続くかもしれませんが
どうかご容赦下さい。

それにしても、
自分はもうパソコン無しでは生きられない人生を
歩んでいるのだなと感じました。
完全に依存症です。

今日はつくづくパソコンが二台あるのを幸運だと感じました。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-28 20:31 | 日常の出来事

「時間」と「とき」

私は普段日曜日は仕事なのですが、
今日はお休みです。
私たちの塾では月に一度程度日曜日のお休みがあります。
今日と明日、二日間の連休です。
「何をしようか」とあれこれ考えていたのですが
家の洗濯機が壊れてしまい、修理に来てもらうことになり
全て台なしです。
特に何も予定も無いまま今日一日を過ごしています。

ですが、何も予定が無いと言っても
必ず何かしているのです。
性格なのか習慣なのか何もしないでいるのが
落ち着かないのです。

どこかに出かける予定が無くなれば
こうしてブログの記事を書いたり、
撮りためている映画を観たり、
買ったまま読んでいない小説を読んだり、
気がついたら何かしているのです。

以前はともかく、
今はそんなに忙しい生活をしているわけではないのですが
それでも、やはり時間を気にしているようです。
「時間が勿体ない」という気持ちがどこかにあるのですね。

昔、「時間」は量のあるもの、使うもの
  「とき」は区切れないもの、流れるもの
という文章を読んだことがあります。
ふとこの文章を思い出すと
「時間」はいつも感じていますが
「とき」というのはここしばらく感じたことがありません。
忙しくない生活ながらも、せわしなく過ごしているのですね。

「漫画の神様」手塚治虫さんの祖父は、
ある藩に仕える藩士だったそうです。
そのお爺さんは毎朝城に出仕し
ずっと「控えの間」というところで
夕方まで何もせずに過ごしていただそうです。
成人し藩士となって、年老いて引退するまで
ずっとそういう生活だったと手塚さんが文章に記されています。
手塚さんはその話を祖父から聞かされ
「なんてつまらない一生だ。」と若い頃は思い、
手塚さん自身が年老いてからは
「そうではないことがわかった。」
と書かれています。

確かに何から何まで
量や価値に置き換えてしまう今の世の中よりは、
豊かな「とき」を感じて過ごせるだけ
幸せかもしれません。

そう思いつつも私自身は
こういう生き方はもうできないだろう。
と感じます。
こんな文章を書きながらも
やはり時間を気にしています。

そういう性分なのか、そういう世の中なのか
こればかりはどうしようもないような気もします。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-26 16:04 | 日常の出来事

求めることと求められること

以前「素質」についての記事を書いたことがあります。
素質というのは先天的なものではなく後から鍛えることもできる。
その時私はそう書きましたし、今もそう思っています。

そのことを思い出しながら、ふと思ったのです。
野球の素質があれば野球を、サッカーの素質がある人は
やっぱりサッカーをするべきなんだろうか?
そう感じたのです。

私の中ではこのことについて結論は出ています。
人間は自分のやりたいことをやるべきです。
ずっとそう思ってきたし、今でもそう思います。

でも、もし今自分のやっていること以上にやりたいことが出来たら
それをやるべきでしょうか?

私自身がそういう状態であるというのではなく、
今塾に来ている子供たちをみていて思うのです。
周りの人間が「こうなって欲しい」と願い、
それに応えることができる力を持っている。
そういう子供はやはり「求められること」を
やっていた方が幸せなんでしょうか?

たまに自分が子供たちに対して
話したことやしてきたことを考えて怖くなることがあります。
別にひどいことを言ったりしたりしてきたわけじゃ無いのですが、
私の言動や行動で
過度の期待に苦しんだり、精神的に圧迫されている子がいるのではないか。
そう思うと申し訳ない気持ちになります。

ここまで書いてきながら、
以前指導していた生徒のことを思い出しました。

まだ私が新人だった頃、ある中一の男子がいました。
彼はサッカー少年で、見た目にもさわやかで
勉強も良くできました。
ちょっと大人しいけど明るい子で、
友達もたくさんいました。
それが、突然不登校になってしまったのです。

何の前触れも無く突然塾に来なくなって、それっきりでした。
しばらくしてお父さんが相談に訪ねてこられました。
学校にも全く行かず、ずっと家にこもって出てこないのだそうです。

お父さんの話によると、
彼はずっと「優等生」になろうとしていたようです。
親や周りの期待に応えたい。
そんな気持ちだったのでしょう。
不登校になるまで、
親に対して反抗するようなこともほとんど無かったそうです。
それが突然精神的にキレてしまった。
「こんなになったのは親のせいだ。」と彼は言ったそうです。

それから二年あまりして
彼の弟が塾に来るようになりました。
その時彼はまだ家から出ない生活を続けていたそうです。
彼の弟が塾に来るようになったのも
家にいると兄の相手をしないといけなくて
精神的につらいので息抜きをさせてやりたいという理由だったのです。

今彼はもうとっくに成人している年齢です。
彼の話はそれっきり聞いていませんが、今どうしているのでしょうか?
ふと思い出して気になりました。

私も子供がいますから、五輪をみながら、
「自分の娘が将来荒川選手のようになったら…。」などと
あり得ないことを考えたり、期待したりしてしまいます。
親が子供に立派になって欲しいと思うのは当然なのですが、
「子供の人生は子供のものだ。」ということを
私自身つい忘れてしまいがちになります。

塾に来ている生徒に対しても
「これだけ出来る力があるのだから、もっと頑張ろう!」
などと無責任にもメッセージを書いてしまいます。
子供の力を伸ばしていくのが私たちの仕事なのですが
「子供たちは本当にそれを望んでいるのだろうか?」
とふと考えます。

「やればできる」子供が頑張らないのは
やはり子供たち自身が、
勉強を自ら追い求めていないからなのでしょうね。
周りから「こうしよう」と言われてするよりも
みずから「こうしたい」と思って取り組んでいく子供の方が
力がつくのは自明の理のように思います。

今の子供たちからは
自ら何かを「追い求める」という意識があまり感じられません。
私たちの世代もかつてはそうだったのかもしれないのですが
今の子供はそれ以上のような気がします。

それは、自ら「ああしたい」「こうしたい」と主張しなくても
ある程度、道筋がきまっている。
だから自分自身であれこれ考える必要がない。
そう思っているからではないでしょうか?

以前高校受験の指導をしていたとき
将来なりたい仕事を聞いたら
「特にない」という生徒がとてもたくさんいました。

子供たちが目的を持ちにくい世の中なのでしょうか?
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-24 00:02 | 塾の仕事を通じて

垣根

塾講師という仕事をしている人は
大抵夜遅く朝も遅い生活をしている人が多いのですが、
私は、子供を毎朝保育園に連れていくので大体朝七時頃に起きます。

今日も子供を保育園に連れていき
朝九時過ぎに家に戻っていました。
帰る途中には中学校があります。
この中学の前を通るのはいつも九時過ぎですから
生徒の姿を見かけることは無いのですが
今日は校門の前にぽつんと立っている中学生を一人見かけました。

どうも彼は何かの理由で学校に遅れてきたようです。
でも、始業時間を過ぎて校門が閉じられているので
学校に入れず困っているようでした。
私は信号待ちの間彼の様子を見ていたのですが
結局彼は校門をよじ登って学校に入っていきました。

ふと自分の学生時代を思い出してみて
「こんなことは自分の頃には無かったな。」
と思いました。
遅刻しても学校に入る事自体に困るようなことはありませんでした。
不審者が多いということで学校もかなり警戒しているのだと思いますが、
何だか寂しい光景です。

学校は地域に開かれているべきですが、
門戸を開放したらどんな人間が入ってくるか分からない。
学校も難しい対応を迫られています。
いやな世の中になってしまったものです。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-23 10:18 | 日常の出来事

覚えることの大切さ


最近「ゆとり教育」の影響なのか「覚える」と言うことが
軽視されているように思います。
「考える力」を育むとか
「自分で気づくこと」を重視するといったことが
塾を含め大抵の教育産業の広告でうたわれています。
本当にそれで良いんだろうか?
指導をしていて時々そう思うときがあります。

勿論「考える力」も「自分で気づくこと」も非常に大切です。
それがいけないと言っているのではないのです。
ただ、「考える」にはその為の材料(根拠)が必要だし、
「自分で気づく」にはその比較の対象が必要ではないでしょうか?
それを無視して、「考える力」を養うのは難しいし、
「自分で気づくこと」は困難なのではないでしょうか?

偉そうな表現になるのですが、人間は自分の知っている範囲でしか
モノを考えることができないはずです。
とすれば、考えられる範囲を増やすには、知識を増やすことが必要なのです。
でも、知識や記憶といったものは今の日本の教育では
軽視されているように思うのです。

「覚える」とか「暗記」とかいうと
すぐに「詰め込み教育」といった悪いイメージにつながってしまう。
でも、それは正しくないと思うのです。
確かに「詰め込み型」と呼ばれるような、知識を覚えることが全てというような
教育というのはおかしいと思います。
ただ、考えたり気づいたりする為には、その為の知識が必要で、
それを身に付ける為の訓練は必要だと思います。
自分が知っている知識を元にして、様々な事を考えたり、
新しいアイディアを思いついたりするのです。

有名な発明家や学者は大抵奇想天外な発想の部分ばかりが強調されますが、その発想に至る前段階では、その分野の広範な知識の集積を行っているものです。
新しい発明のほとんどは、今までに分かっている知識を組み合わせることで生まれています。ですから、縄文人にスペースシャトルは発明できません。そこまでに至る知識も技術もないからです。縄文人の知識の範囲で何を組み合わせても、スペースシャトルには結びつかないのです。それと同様に、今の時代に生きていたとしても、十分な知識の無い人間にはそこまでの発想しか生まれないと言えると思います。

「知識」を軽視する傾向は、かつて私たちやそれより前の世代で、厳しい受験競争が行われてきたことに由来しているように思います。
ただ闇雲に覚えて、それを答案に書けるのが優等生。そうでないのが劣等生。
そこまで極端ではないかもしれませんがそういう傾向があったのではないでしょうか?
今の「暗記」や「記憶力」の軽視の傾向はその反動のように感じます。

私が高校一年の時、私の友人にH君という人がいました。
彼は、英語の定期テストがいつも90点以上ありました。
ですから通知表の成績はいつも9か10(10段階評価)でした。
でも、彼は模擬テストではほとんど得点できなかったのです。
いつも定期テストで平均そこそこの私よりもずっと悪かった。
なぜかというと、彼は定期テスト前にいつも教科書の本文の丸暗記をしていたからです。
彼には申し訳ないが、これは無駄だったと思います。

「知識」というのはそれを自分自身が使っていけるものでないといけないと思うのです。そして実際に使ってみる。そうして分かることを「経験」と呼ぶのではないでしょうか。使える知識が多いほど、発想の幅が広がる。経験も増える。
そう考えたら「覚える」ということは、やはり大切だと思うのです。
特に年が小さい子供ほど「覚えること」は大切だと思うのです。
幼い子供ほど使える知識が少ないのですから…。

話が逸れますが、
この仕事をしていると時々まだ十分に物事を判断できない小さい子供に
非常に重要な判断をまかせておいて
「子供の自主性を尊重している。」といわれる方を見かけます。
勿論親によって考え方が違うのは当然なのですが、
私はあまりそうはしたくありません。
十分な知識を身に付けるまでは親がきちんと考えて決めてやるべきです。
それは親の責任だと思います。
子供たちにはまだまだ世の中について
「覚える」べきことがたくさんあるのですから…。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-17 01:11 | 塾の仕事を通じて

理論と情熱

昨日NHKの「その時歴史が動いた」を見たのですが、今回は二宮金次郎の物語でした。
勤勉の象徴のような人だということは私も知っていましたが、いつの人で実際に何をした人なのかということは今回初めて知りました。

大抵の方はご存知なのかもしれませんが、一応書いておきますと
江戸時代末期の農政学者で農業生産の向上に尽力し、数万人の餓死者が出たと言われる「天保の大飢饉」の際には故郷の小田原藩で4万人の飢えに苦しむ農民を救った。
「天保の大飢饉」の後の「天保の改革」では、農民の出身でありながら幕臣に抜擢され、飢饉で荒廃した農村の復興に努め、生涯に600以上の村を復興させた。
という人物です。

彼の話を見ながら感じたのは、人の心を動かすのに如何に情熱が大事がということです。今、二宮金次郎というと熱心に勉強した勤勉な人物という人物像が先行していて、私自身「勉強ばかりしていた人(今風にいえばガリ勉)」で頭でっかちな人物のように思っていたのですが、実際の彼はそうではなかったことがよく分かりました。

飢えに苦しむ人を救う為に彼は「協同組合」のようなものを考え出したそうです。
彼が考えた事は確かに素晴らしいことだったと思います、でもそれをただ主張するだけでは、多くの人の賛同を得ることは出来なかったのだろうと思うのです。
「飢えに苦しむ人を救いたい」というその情熱に、ほだされたりあるいは圧倒されて、彼の主張に多くに人が耳を傾けるようになる。そうやって、彼は飢えに苦しむ人々を救ったのです。

かつて私は大手塾で校舎責任者をしていました。当時は末端ながらその塾の幹部であったと言えると思います。その時当時20代半ばだった私は、会議や研修会などで自分が正しいと信じることを遠慮なく主張し続けました。会社を発展させたい、もっと良い塾にしたいと色々考えていたのです。ですが、それはほとんど採用されず、自分の考えの正しさを信じ切っていた私は
「何で分かってくれないのか?」
「正しい意見が採用されないのに、なぜ会議をする必要があるのか?」
と心から憤慨していました。不満もかなりたまりました。

ですが、今なら自分の意見が採用されなかったことの理由がよく分かります。
内容は正しかったのかもしれない(間違いだったかもしれない)が、その意見にどれだけ自分の熱意や情熱をこめることが出来たのか?それがポイントだったように思います。それに発言している私自身が周りからどれだけ信頼されているか?ということ。
校舎責任者になったばかりで、知ったようなことばかり言う私のような人間の発言は信頼出来ない。もっと実績を出してから文句を言え。そう思った人が多かったのでしょう。今ならそう感じます。
その当時は主張が正しければ必ず採用される。そんな思い込みがあったと思います。
まさしく理屈倒れです。

「私に任せてもらえませんか?」そう言って、
「あなたがそういうなら任せよう。」と言われるだけの
実績と経験とさらに情熱を積み上げていきたい。そう思います。
どうも私は、理屈ばかり先に立つところがあるので…。
二宮先生にあやかりたいものです。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-16 10:16 | 日常の出来事

塞翁が馬

今日、昨年卒業した生徒が遊びに来てくれました。
今度中2になるのですが、今通っている学校がとても楽しいようで、
話をしていてとても嬉しくなりました。

色々話したいことが多かったようで、
彼女は色々な話を止めどなく話し続けていたのですが、
その話を聞きながら、「本当に話すのが上手になったなあ」
と感じました。
彼女は友達を作るのがちょっと苦手で、小6で塾に通っていたときも、
休み時間になると私のところに来て色々話していたのですが、
その頃とは大違いです。
理路整然ととても分かりやすく話してくれました。

彼女の妹が今私たちの塾に通ってきているので、
「お姉ちゃんは今どうしている?」
と時々様子を聞いていたのですが、今通っている学校が彼女にはとても合っていたようで、中学校でぐんぐん成績が上がっていると聞いていました。

今日実際に会ってみて、確かに勉強が出来るようになったのだろうと
彼女の話しぶりから実感できました。

塾に来ているときは正直言って勉強が好きな子ではありませんでした。
本気にさせるのにかなり苦労しました。
休み時間に話をするときも、勉強の話をしようとすると嫌がって、
話題を変えようとしていました。

それが今日は全く反対。自分から学校の勉強の話をたくさんしてくれましたし、
学校で覚えた古文の文章(竹取物語)を暗唱したり、
茶道(茶道の授業があるのだそうです。)作法を説明してくれたりしてくれました。
私はその様子をただひたすら関心しながら聞いていたのです。


彼女が帰った後で、彼女のことを考えながら、改めて
「子供の可能性ってとても大きいなあ」
と感じました。
何かきっかけがあれば、それまであまり上手く勉強が出来なかった子も
大きく変わることがあるのだということを感じました。
勉強だけではないと思います。
大切なのは環境ときっかけだと思うのです。

昔読んでいた小説に
「正しい道を正しく歩んでいる者の前には、正しい師が現れる。」
というくだりがあったのですが、その通りじゃないかと思います。
頑張っている人間は自分で自分の一生の転機をつかむのではないかと思うのです。
大袈裟な表現になりますが、彼女もきっとそうだったのではないかと思います。

ただ、子供の場合は周りがサポートして出来るだけ子供の心の養いになるような
環境を作ってやる必要があるのではないでしょうか。
私達塾講師がその一助になれればと思います。
一人でも多くの子供に自分の力を伸ばすきっかけを見つけさせてあげたい。
そう思いました。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-14 23:09 | 塾の仕事を通じて

子供の診療について

保育園の耳鼻科検診で下の娘が「中耳炎」と診断されたので、
今日、娘を耳鼻科に連れていきました。

診断通り中耳炎だと病院でも診断されて、薬をもらうことになりました。
最近は「医薬分離」とかで、病院と薬局は別個になっているようで、
病院で処方せんをもらい、薬局で薬をもらおうとしました。

大抵病院があるとすぐ近くに薬局があるのですが、
今日行った病院の近くには薬局が見当たりません。
ちょうど上の娘を広島大学病院近くの保育園に迎えに行かなくてはならず、
大学病院の近くには処方せん調剤の薬局がいくつもあるので
「まあ そこでもらえばいいか。」
と思って病院を後にしました。

続きを読む
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-13 19:54 | 日常の出来事

プロ棋士

以前から、「凄い生徒がいた」と話だけは聞いていたのですが、
私が勤める塾にかつて物凄い卒業生がいたそうです。
「テキストでも何でも一度読んだらすぐ全部覚えてしまう。」
「小4のときに彼が読んでいる本を見せてもらったが、大人の自分でも難しくてさっぱり分からなかった。」など、その逸話の数々を塾長から聞かされてきました。
その彼がついに17才にして、何とプロの棋士になったという記事が昨日の中国新聞に掲載されていたそうです。現役の高校生がプロになるのは中国地方では史上初めて、現役の棋士では最年少のプロ棋士なのだそうです。

棋士というものには縁が無い私ですが、それでも「月下の棋士」という将棋漫画を読んでプロになるということの大変さは何となく知っています。
プロになって活躍するのは勿論大変ですが、プロになること自体が物凄く大変なことなのです。小さな頃からそれぞれの地域で「天才」とか「神童」とか呼ばれるような子どもだけが、奨励会というプロ棋士の養成機関に入ることができ、その中で勝ち上がったごくわずかな人間だけがプロになるのです。これは大変な世界です。

私は直接教えていないので、それほど実感が湧かないのですが、
塾長は大喜びで、その記事を拡大し、教室にデカデカと貼り、また全生徒にプリントにして配付するという徹底ぶり。
今日の授業前には、塾長はプリントを配り、彼がいかにすごい生徒だったかを力説していました。
そうして時間は午後7時前。ちょうど6年生の授業中に何とその彼本人がご両親とともに塾長を訪ねてきたのです。新聞に載るような有名人がきたということで、教室は大騒ぎ。
「サインもらおう」
「写真撮りたい」
「携帯持ってればよかった」とか
大変な興奮状態。さすがに彼もご両親もびっくりしていました。
急きょ彼に教室で話してもらうことに。
プロ棋士とはいえ、普通の高校生。大勢の子供の前で緊張したようで
「頑張って下さい」とだけ一言。それだけ話してくれました。
子供の頃からきっと秀才といわれてきたのでしょうが、普通の気さくな高校生でした。

最年少のプロ棋士ですから、これからまだきっと強くなるんでしょうね。
棋士になったことではなく、今後は活躍が新聞の記事になるのを期待しています。

彼みたいに凄い人はなかなか出ないでしょうが、やはり指導した子供が立派になってくれたら嬉しいですよね。
プロ選手とか、オリンピックとがそんな大層なことじゃなくてもいいのです。
ただ普通に立派に社会人になってくれたり、結婚して暖かい家庭を作っていたり
そういうことで十分なのです。

昔の教え子の写真を見ながら、「今ごろどうしているんだろう?」と考えました。
[PR]
by soul_doctor2005 | 2006-03-12 00:03 | 塾の仕事を通じて