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巡り合わせ

この数日間で広島地区の中学入試の日程が出そろいました。
広島地区(広島市近郊)では、各学校の申し合わせで、
それぞれの学校の受験日を決めているので
毎年そんなに極端に日程が変わることはありません。
が、今年は結構困ったことになってしまったのです。

男子については例年通りで特に問題はないのですが、
女子の方が問題なのです。
というのも、あまりこういう表現は好きではないのですが
いわゆる「本命」の学校と「すべり止め」の学校の受験日が同じで
両方を受験することが出来なくなっているのです。
一か八か「本命」の学校を受験すると、全部落ちてしまうことになりかねないし、
「本命」の学校を受験しないと、「今まで何のために頑張ってきたのか?」と
子どもたちもがっかりすると思うのです。
私も塾長も、ボーダーラインにいるような子にはどう勧めたらいいかと悩んでいます。

毎年同じなのですが、同じように努力して、同じくらい力のある子どもたちが
受験する学校の選び方だけで、大きく結果が変わってしまうということがあります。
私たちの塾は基本的に「この学校を受験しなさい」というような指導はしない方針です。
もちろん、それぞれの学校への「合格可能性」などの話はしますが、
最終的には子どもたちと保護者の方で受験校を決めていただくようになります。
でも今回のような状態では「やはり少しくらいは助言した方がいいのだろうか?」と悩みます。

こう考えると、
どんなに頑張っていてもその成果が「運」に左右されることもあるのだな
と改めて感じます。

実力がないと良い結果を出すことは出来ないけれど、
実力があっても良い結果を出せない場合もある。
むしろ、こちらの方が多いような気もします。

自分の一生の転機が自分以外の要因で決まってしまうのは
なんだか納得行かない気もしますが、
今までの自分の人生を考えてみるとそれが普通だし当たり前のように思えてきました。

今思えば、私の人生の転機というのはほぼ例外なく他人から告げられてきたように思います。
同じように、私が他人に人生の転機を告げたこともあります。
そんな風に、人生の転機というのはお互いにまわりの人間に告げあうものなのかなと感じます。

今回の入試の日程は先日文書で保護者の方に配布しました。
日程を見て、悩まれる方もおられると思います。
子供の一生の転機ですから当然です。

ただ、自分の力でどうにもならないことはどうにもならないのです。
どう頑張っても試験の日程を変えることはできません。
だからとにかく、しっかり考えて納得できる結論を出すしかない。
そう、保護者の方にはお話ししたいと思います。

私自身の経験からいっても、
大学受験では第一志望の大学には合格できませんでしたが、
第二志望の大学に行って今は本当に良かったと思っています。

「人間万事塞翁が馬」といいます。
どんなことが自分にとって本当にいいことなのかは
後にならないとわからないわけですから…。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-26 00:48 | 塾の仕事を通じて

奈良の放火殺人事件について

奈良の放火殺人事件について

中学受験の指導をする私にとっては人ごととは思えない事件です。
受験が近くなるとやはりつい子どもたちに厳しい言葉を発してしまいます。
保護者の方ももちろんですが、私たちも子どもたちを指導する際に
「もっとを力をつけて欲しい。」そんな思いでつい指導に力が入ってしまう。
預かっている子どもたちを大切に思うからこそ、
そう感じるし、そう指導するのですが、
それが子どもたちに何らかの重圧を与えていることは否定できません。
子供によっては、私が意図してそうしている場合もあります。

子供の気持ちを考えて指導しているつもりですが、
今回の事件を見て、
子供の気持ちを考えて指導しているといっても、
あくまで「大人の基準」でモノを見ている場合があるのではないか。
と感じます。

子供が重圧に耐えきれないとき、
大人はその重圧から解放してやる(一時的であっても)必要がありますが、
私たち塾の講師はそれが出来にくい立場にあります。
重圧の内容が「勉強」である場合「勉強するな」とは言えないのです。
私たちは「勉強させる」のが仕事ですから当然といえば当然ですが…。

塾の先生方によって意識は違うのかもしれないですが、
私は生徒に雇われているのではなく、生徒の保護者に雇われていると思っています。
ですから保護者の意向を無視するわけにはいけないと思っています。

一人の子供を学校の先生と親(さらに塾の講師)とで見ていくわけですから、
いろいろな大人にいろいろなことを言われる子供は辛いのかもしれません。
確かに今の子供は大変だなと感じます。
ただ、私や私の親の世代に比べて極端に厳しい環境に置かれているとは思えないのです。

私はいわゆる「団塊ジュニア」と呼ばれる世代で、
受験でも就職でも同年齢の人間の人口が多かったので
(私の世代がピークで後は減り続けています。)
それなりに厳しい競争にもまれてきたと思います。
、今の子どもたちは、当時の私の年代の半分くらいの人口しかいません。
単純に考えると、受験でも就職でも競争率が半分のはずなのです。

塾の仕事を始めてから知ったのですが、
今の高校生は、私たちが入るのに四苦八苦していた大学を
当時の私たちよりずっと低い成績で合格できるのです。
正直うらやましいと感じます。
だから今の子供全てが学習面で特に厳しい競争にさらされているとは思えないのです。

私たちの世代や私の親の世代は厳しい受験競争の時代でしたが
だからといって、今回のような事件が頻発していたことはなかったと思います。

ですから今回のような事件が続くのには社会的な面の影響が多いと思うのです。
「ゆとり教育」だけでなく、今の日本は「勉強しすぎ」「働き過ぎ」からの反動で
生活にゆとりをもとうとするような傾向が見られます。
その一方で、社会人になれば競争社会にもまれるという現状もあり、
キャリア志向が強く、寝る間も惜しんで働いたり、技能を身につけようとしている人もいます。
最近よく「勝ち組」「負け組」などという言葉が使われますが、
こんな風に社会の風潮が二極化してきていることにも、今回の事件の背景があるように思います。

「他人の芝生は青く見える」といいますが、
みんなが同じような状態にあった私たちの世代は「他人の芝生も同じに見えた」ので
そこまで不満はたまらなかった。
でも、今の子供は今の自分と違う生き方をしている人を知っている。そうすると、自分だけが特別に厳しい環境に置かれているように感じるのではないでしょうか?

ただ、世の中に「勝ち組」と「負け組」があるなら、「勝ち組」に入れたいというのか親の正直な心情だと思います。そういう思いから子供を非常に厳しい環境に追い込む親もいるようにも感じます。報道を見た限りでは、事件を起こした少年の両親はそういう傾向があったようにも感じられます。もしそうなら、少年も気の毒だったと感じます。

正常な判断が出来ないまでに追いつめられていたのでしょうか?
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by soul_doctor2005 | 2006-06-24 23:35 | ニュースについて

山口母子殺害事件の判決について

被害者の夫の本村洋さんは、判決の後で「最高裁で死刑判決が出て欲しかった」とおっしゃったそうですが、そのニュースを見る前に私も同じことを感じました。

この事件が他の事件以上に私の印象に残るのは、隣県の事件であることと、本村さんが私と同年代の人である(私は本村さんより2歳年上です。)ことなどからです。
 本村さんはこの数年、殺された妻子の無念をはらすことのためだけに生きてこられたように思われます。私にも妻子がいますが、本村さんの無念は察するに余りあります。
その無念を察しての最高裁の判断だとは思うのですが、これまで数年間を費やした本村さんにまだ数年間費やせというのでしょうか?
最高裁で判決が出て、さらに弁護側が上告ということになればまた数年の期間を要することは明白です。
本村さんが事件の為に失った時間を思うと日本の司法制度の問題点の多さに腹立たしさを感じます。

この事件だけでなく日本の裁判は時間がかかり過ぎる。
行政訴訟などでは、決着がついた時には原告の多くの人たちが老いて亡くなられている。それでは何の為の裁判なのかわからない。
今ちょうどその為の改革を行っているはずです。
それなのに司法の頂点に立つ最高裁がこのような判断を下したことが残念でなりません。

自論である「死刑制度廃止」をこの裁判に持ち込んで
「政争の具」にしようとしている安田弁護士の姿勢にも疑問を感じます。

こんな人ばかりがいるような法曹界なら、
「裁判員制度」で自分が選ばれて裁判に参加することも仕方がないのだろうか
とも感じます。
どうも司法の世界にいる人たちの考えが自分たちとはかけ離れているように感じるのです。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-21 00:02 | ニュースについて

「怒る」と「叱る」

「怒る」と「叱る」というと
よく、「怒る」のは駄目。「叱る」必要があると言われますが、
何となく、そうとも限らないととも感じます。

正直言って私は、「怒る」のが苦手です。
「叱る」ことはできるつもりですが、
今の子供は(昔もかもしれませんが…)
ただ「叱る」だけじゃ効果がない時もあります。
理を含めて説明しても、全く理解してくれない、そういう子もいます。

自分の子供でもそうなのですが、
子供だからこそ、理屈が理解できない、
あるいはわかっていても自分の気持ちが抑えられない。
そういうときがあると思います。
やり方としては正しくないのかもしれないのですが
そういう時は「怒り」を発することで
子供に「これはいけないことなのだ」と理解させないといけないのだと思います。

そう思うのですが、心の中で怒りを感じていても、
「ここで怒るのは単なる八つ当たりじゃないか」などと自問自答して、
結局我慢してしまうことが多いのです。
私のような小心者には、「怒る」タイミングが難しい。

「怒る」と自分もその後結構へこんでしまいますし…。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-19 12:32 | 塾の仕事を通じて

市場原理

最近塾の仕事で手いっぱいで、
帰宅するとパソコンを触りたくない気分になり、
しばし更新が滞っておりました。
ちょくちょくこういう時がありますが、
更新自体を辞めるつもりは毛頭ありません。
どうか、気長にみていただければ幸いです。

ここしばらく夏期講習の準備をあれこれとしておりました。
私の勤務する塾は、小学3年生からやっているのですが、
3年生はこれまで夏期講習をしていませんでした。夏休みはお休みなのです。
夏休みは朝からずっと授業なので、手一杯で時間がとれないというのが理由なのですが、「でも今年からは何とかやりたい」ということで
段取りを考えておりました。

授業をするとなると当然教材が必要。
そこで、普段からつきあいのある教材屋さんに教材のサンプルをいただいて
内容などを検討していました。
ちょっとこれは良いなというテキストがあったので
教材屋さんに値段を問い合わせてみるとこれが非常に高い。

同じテキストの小学4年版や5年生版が800円なのに、3年生版は1200円もするのです。ページ数も4年生版や5年生版の方が4割くらい多いのですが…。
「やっぱり数が出ていないからですか?」と聞いたら
「おっしゃる通りです。」との返事。

確かに4年生から授業が始まるという塾も多いですから無理もないのかもしれません。
「売れないので3年生の教材は一切作りません。」と言われるよりましかもしれません。ただ、学年が下がるほど授業料も低くなりますから、正直痛いですね。
何だか資本主義社会の末端を見たようで、ちょっと寂しい気がしました。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-16 00:01 | 塾の仕事を通じて

「勝ち」をめざすこと

W杯が開幕しました。
これからしばらく寝不足の日々が続きます。
大変ですが、それだけの素晴らしい試合があること期待して
眠気をこらえてしっかり観戦します。

私は、W杯の64試合何とか全て見るつもりでいます。
もちろん全てがいい試合というわけではないでしょうが、
一つ素晴らしい試合を見てしまうと、全て見ずにはおれなくなるのです。

W杯の素晴らしいところは、やはり世界の一流選手が勝つためになりふり構わず闘うところにあると思います。昨晩のイングランド対パラグアイ戦、スター軍団イングランドに立ち向かったパラグアイの選手達の闘志あふれる戦いぶりは素晴らしかったです。明らかにパラグアイは引き分け狙いでしたが、それもあくまで予選を勝ち上がるため。「相手がイングランドだから負けても仕方ない」とは全く考えていなかったはずです。

予選リーグはたったの3試合。トーナメントは負ければ終わり。そういう後のない戦いだからこそ見ることの出来る戦い。だからこそ世界の多くの人が熱狂するのだということを私自身が感じています。

プロのサッカー選手と塾の子どもたちを比べるのも何ですが、
子どもたちにも「勝ちを目指す」ということを考えて欲しいと思います。
もちろん勝つことが全てだとは思いません。
勝つため(勉強の場合はいい点を取ること)だけを考えさせるような指導はしていませんし、
するべきではないと思います。
ただ、遊ぶのでも勉強でも習い事でも、「うまくなろう」「負けたくない」という思いで取り組んでいる方が力はつきますよね。そういう子の方が、生活も充実しているように感じます、
全ての子ではないですが、「親にしろといわれたから」「別に勉強なんか出来なくてもいい。」と思っている子がいるんですよね。そういう子はたいてい他のことも中途半端に取り組んでいる感じがします。

この一ヶ月の間にW杯を見る子供は、私の指導する子どもたちの中にもたくさんいます。
試合の見る中でただ「勝った、負けた」だけでなく、「一流の選手でも勝つために必死なのだ」ということを感じ取って欲しいです。でももしかしたら、「一流だから」必死で勝ちを目指すのだといえるのかもしれませんね。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-11 23:11 | ニュースについて

「自分に問題がある」と思うこと。

先日の記事で、
「出来ない子は出来ないことを自分以外の理由があることにする」
というようなことを書きました。

いつも思うことなのですが、
自分が何か出来ないことがあったとして、
それが自分にはどうしようもないことが原因だったら、
もうどうしようもないですよね。
私はそう思うのが嫌なんです。

私の仕事の場合、
例えば思うように授業が行かないとして
それを「生徒が集中してないからだ」とか
「生徒の力が低いからだ」と考えたら、
もうどうしようもないのです。

仮に「何を教えても絶対に身に付かない子」がいたとして、
そういう子だったら「子供が原因だ」といってもいいのかもしれませんが、
これまで教えてきて、そういう子には会ったことがありません。
以前も書きましたが、大半の子は「頑張ってない」から出来ないのだと思うのです。
「頑張っていない子供」にも原因はあるかもしれませんが、
「頑張らせていない自分」にも問題があるのです。

私は、自分が「子供が駄目だからできない」と考えてしまうのが怖いのです。
そう考えたら、
「いま自分が教えている子どもたちはどうやっても力が伸びない。」
ということになるからです。
何をやっても不手くいかない、成績も伸びない。
そんな状態で自分がこの仕事を続けていくとしたら、
そのことがとても怖いのです。

「子供のため」というのもあるのですが、
同じくらい「自分のため」に充実した仕事がしたいと思うのです。
そのためには、自分の指導が子どもたちに効果があると思いたいし、
そのために努力をしていきたい。
どんな仕事でも同じだと思うのですが、
「自分がやっている仕事に意味がない。」と考えるのは
やはりつらいと思うのです。

「子供の力が伸びないのは自分が原因」
そう考える方が前向きだと思うのです。
自分が頑張ればどうにかなるわけですから。
自分が弱い人間だからだと思うのですが、
「他力本願」な状態になるのが怖いのです。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-10 22:13 | 塾の仕事を通じて

「祈る」ということ

度々書いていますが私は広島の人間です。
広島で生まれ育った子供は、必ず(最近は違うようですが…)学校で
「平和教育」を徹底して習います。

広島市の花は「キョウチクトウ」
「百年間は草木も生えない」と言われた原爆後の広島に
最初に咲いたのが「キョウチクトウ」の花、
それが市の花の由来だと習ったのを今でもはっきり覚えています。

原爆が落とされた8月6日は、毎年学校の登校日でした。
「平和公園」で行われる「平和記念式典」にあわせて学校で黙祷します。
そして、みんなで「なつやすみ帳」の原爆ページをみんなで勉強するのです。
今は、かなり変わってしまったようですが、私の子供の頃はそうでした。

そういう広島ですから、8月6日が近づく今の時期になると
だんだんとテレビや新聞、ラジオなどでも
「祈る」とか「祈り」という言葉が
頻繁に使われるようになってきます。
「平和の祈り」「平和の誓い」そんな言葉が聞かれるようになると
「また、原爆の日がくるんだな」と感じるのです。

ふと、ふり返って考えてみると、
自分は最近「祈る」ということをしていないなと感じます。
それに今思うと、数年前までは「祈る」ということがどういうことなのか
実感としてはわかっていなかったとも思います。

世界のどこかで核実験が行われると
広島では被爆者団体の皆さんが
抗議の座り込みをします。
広島市長はその都度抗議の文書を送ります。
私には正直言って最近までそれらの行動が
「無駄」にしか思えなかったのです。
何度抗議をしても無視されるのがわかっている。
なのになぜ意味がない行動を繰り返すのか?
そんな思っていたのです。

ですが今はそういう行動をしておられた方々の気持ちが
わかるような気がします。
自分なりにですが、「祈る」という言葉や行動の意味が
わかるようになってきたからです。

2001年の元旦に私の父がガンで亡くなりました。
私はそのころ結婚が決まっていて、
父が入院したことでそれが延期になっていました。
「父が元気に回復し、結婚式に出て欲しい。」
そう思って延期をしてきたのですがそれはかないませんでした。

その後結婚し子供もできて、
仕事では校舎責任者として管理職になりました。
家庭でも仕事でも、だんだんと生前の父の立場に近づくにつれて、
「こういうとき父もきっとこう思っていたんだろう。」とか
逆に「こういうとき父はどんなことを考えたのだろう。」と
あれこれ考えることが多くなりました。
「父と色々話したい。」そう思うことが多くなってきました。
でもそれはもちろんかないません。
そんなことがあってから、自分は「祈る」という言葉や行動を
理解できるようになってきたように思います。

人間に出来ることには限界がある。
でも、時にはその限界を越えることを願ったり望んだりしてしまう。
それを叶えるのは無理とわかっていても、
気持ちが抑えきれなくて
「祈る」という行動につながるのだろう。
いまはそんな風に理解しています。

でも、今の世の中って
「祈る」必要がどんどん少なくなっている社会だなとも感じます。
「願って叶うこと」だけを追い求めて、「無理なこと」はあっさり諦める。
そんないい意味でも悪い意味でも「あっさり」とした世の中になってしまっているように感じます。
何となく淋しいですね。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-08 23:21 | ニュースについて

望むこと、望まれること

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今日は音楽の話題です。
多分、ほとんどの方がご存じないと思うのですが
ドイツ人のトミー・ハートというヴォーカリストの話です。

彼は、日本でもかなり人気のあった「Fair Warning」というグループのヴォーカルでしたが、数年前にバンドを脱退、自ら「Souldoctor」というバンドを結成し、現在はFair Warningにも復帰して、二つのバンドを掛け持ちしている人物です。

1992年にFair Warningとしてのアルバムを聞いたときから、私は彼らのファンでした。特にヴォーカルのトミー・ハートのファンで、彼の何とも言えないハスキーで感情的な声、音楽に賭ける真摯な姿勢がたまらなく好きなのです。
彼らはこれまでに4枚の素晴らしいアルバムを出していますが、セールス的には成功せず、2000年トミー・ハートの脱退で休止状態となっていました。今回トミー・ハートが復帰することで数年ぶりにバンド活動が再開。今月にはシングルを、来月にはアルバムをリリースします。

さて、本題ですが
2000年に彼がFair Warningを脱退したときには、私だけでなくかなり多くのロックファンが驚いたものです。「脱退した」という以上のことがさっぱりわからず、あまり多くもない情報を探し回って国内外の色々なサイトで情報を探しました。
あとでわかったのですが、「もっとやりたいことがあった」と彼は発言しています。彼自身はもっと自分のルーツであったロックンロールをやりたいと考えていたようです。Fair Warningは日本では人気があったので、そのまま続けていれば人気も収入もそれなり(大金とはいかないと思いますが…)に手に入ったはずです。それでも「自分の道を貫いた」わけで、「残念だけと仕方がないな」と思ったのを覚えています。

ただ、現在彼が率いているSouldoctorは私を含めてFair Warningのファンには評判が良くないのが事実です。それはSouldoctorの音楽性がFair Warningとはかなり違うからで、Fair Warningで彼を好きになったファンの多くががっかりしたと思います。

それでも彼はFair Warning再開の際のコメントで「Souldoctorは絶対にやめない」と宣言しています。そして、Fair Warningに復帰した理由を「ファンのため」と発言しています。つまり彼は今「自分のために」Souldoctorで活動し、「ファンのために」Fair Warningで活動しているわけです。そしてそんな今の自分の状況を「とても自分は幸せだ。」と語っています。

そんな彼の記事を読んで、彼が「幸せだ」と語っているのはホントなんだろうなと感じます。彼のようなミュージシャンでなくても、「自分が皆から望まれていること」と「自分がやりたいこと」を両立するのはとても難しいものです。
「こんな人になって欲しい」とか「こんなことをやって欲しい。」と周りから思われたり期待されたりすることは、時にかなり重圧になります。反発もあると思います。
だからかえって「自分はこういうことをやりたい」という気持ちが固まるのだろうと思うのです。でも一方で「周りからの期待」という枠から外れてみると、「周りから期待されてその期待に応えること」にも喜びや充実感が伴うことであることもわかるのです。

ファンの勝手な想像ですが、この数年間で彼もそんなことを感じたのではないでしょうか?それで出した結論が「Fair Warningへの復帰」「2つのバンドの掛け持ち」ということだったのではないかと思うのです。

もうすぐ6月21日には新曲が手元に届きます。
そんな彼の数年間を想像しながら、新曲をじっくり楽しみたいと待ちこがれています。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-06 23:57 | その他

まず、やってみる

以前も「学習の効果を不げるには、本人のやる気が必要」
という主旨の記事を書いたことがあります。
それに関連することなのですが、
最近、授業をしていて、
やる気のない子どもたちがよくいう言葉があることに気がつきました。
それは、「もし、出来なかったらどうする?」と言う言葉です。
他にも「もし駄目なら〜」とか「多分できないと思うけど…。」とか
口にする発言がネガティブなのです。

たまに問題演習を行うときに
「出来たら一問ずつ持ってこさせる」という形で
指導をするときがあります。
そうすると、「出来てないと思うけど…」
「多分違ってるけど…」とかいって持ってくる子がいます。
断言は出来ませんがたいていそういう子はあまりいい成績でなかったりします。

考えてみれば当然かもしれません。
最初から「駄目かも」などと逃げ道を用意してから
問題をやっているわけですから。
「絶対に解いてやる!!」
という気持ちで取り組んでいる子に勝てないのは当然のように思います。

テストのときにも
私が「わからなくても何とかして答を書こう。」
といっても全然解答を書かない子もいます。
本当に見当もつかない子は仕方がないとして、
一度解答した答を提出の際に消してしまう子がいるのです。
後で聞いたら「自信がなかったから」といいます。
プライドが高いのか、
「きれいな答」を書かないといけないという意識があるのかもしれません。


そういう子には私はこういうことにしています。
ありきたりですが「まずやってみよう」ということです。
「出来ない子」の中の結構な割合の子は
「やらずに出来ないと思っている」のです。
そういう子がとても多い。
じっくりやってみたら大したことないのに
ちょっと考えて答がでないと
「わからない」「できない」と思いこんでしまう。
本当にありきたりですが
「まずやってみる」が出来ない子はとても多いと感じます。


日常生活や会社などでも
こういう人は結構いるように思います。
会議などをしていても
「反対のための反対」に終始している人です。
今までにない新しい提案がでると、
それについて「駄目な理由」ばかり思いつく人です。
それで「じゃあ、どうしたらいい?」と聞くと
答えられないのです。
もちろん、今までやっていなかったことなのですから、
それが出来なかった理由が何かあるはずです。
でも、会議で考えないといけないのは
「その提案が有益がどうか」ということと
有益であれば
「それを実施する際の問題点と解決方法。」
ではないでしょうか?
反対するだけでは前に進めない。
前に進むためには、新しいことをしなくてはならない。
そう思うのです。

子どもたちの中にも、問題が出来ないと
「学校が忙しいから」「習い事があったから」などと
出来ない理由を並べますが
「できるようになるにはどうしたらいい?」と聞くようにしています。
自分の問題点を解決するための方法を自分で考えて欲しいのです。
その方が何事にも前向きに取り組んでいけると思います。

これは自分にも言い聞かせていることです。
前向きじゃない時って自分で自分に不運を集めてくるようなところがありますよね。
自分に自信が無いと逆に周りを疑ってみたり…。
自分に原因があり、それを克服していこうとするのが前向きな姿だと思うのです。
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by soul_doctor2005 | 2006-06-05 19:31 | 塾の仕事を通じて