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向学心

昨日の授業で、小6で入試問題をやってもらいました。
三重大学附属中の問題だったのですが、これを
「さんじゅう」大学と読んだ子がいます。
その子は、何度繰り返し注意しても、
都道府県を覚えることをせずに、
授業でも「私は都道府県なんかわからない。」と堂々という子です。
三重県という県があることを知らないか、忘れているのです。

都道府県を覚えることくらいは、
しっかりやれば何とかなると思うのですが、
問題なのは「そんなこと出来なくていい。」と思っていること。
だから、覚える気がないのです。
そんなに力のない子だとは思いませんが、
他の子に比べると努力がたりない。
これから受験の佳境に入ってきて、
きちんとやってくれるか心配です。

以前に教えていた別の子供で
アナログ時計の時刻が読めない子がいました。
全く読めない訳じゃないのですが、
4時30分などの時刻だと
短針が4と5に間にあるので
「4時30分」か「5時30分」が迷う
というのです。
そういうことがわからないと日常生活で困りそうなものですが、
本人はあまり危機感を感じていないようでした。


学力低下が叫ばれている今の世の中ですが、
問題なのは学力そのものの低下よりも
子どもたちの向学心の低下だと感じます。
これは、学校などでいわゆる「出来ない子」に合わせて
授業が行われているような側面もあると思います。

余りに平等ということにこだわりすぎて
子どもたちの伸びる可能性をスポイルしているように感じるのです。
出来なくても困らないし、注意もされない。
逆に「出来る子」の方はもうわかっていることを繰り返し聞かされるし、
どんどん先をやろうとすると注意される。
「出来ない子」はいつまでたってもやる気にならず、
「出来る子」はどんどんやる気をなくす。
今の学校教育にはそういう面があると感じます。

私はいわゆる「出来ない子」というのは、
2通りに分かれると思っています。
「頑張っても出来ないという子」と
「頑張ってないから出来ない子」です。
私は今の「出来ない子」というのは
はるかに後者が多いと思います。

ほとんどの子はやる気を出して、
一生懸命取り組めば何とかなる子です。
でも、心底勉強嫌いになっていてやる気が出せない。
そういう子が増えてきているように思います。

塾の指導者として、二人の娘の親として
今の学校教育の現状が心配です。
学校の先生はとても頑張っているというのはよく知っています。
でも、個々の先生方の頑張りだけではどうにも行かないようなことも多いようです。
地域や自治体や国が、しっかり学校をサポートしていくべきだと感じます。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-27 21:00 | 塾の仕事を通じて

地理の嫌なところ

「日本国勢図会」という統計集があります。
社会科で地理の指導をするとき必須の資料です。

先日、「日本国勢図会」の最新版を入手して、
今日じっくり内容を確認したのですが、
「う〜ん、困ったなあ。」と
唸ってしまいました。

というのも
毎年この「日本国勢図会」をチェックするのは、
地理の統計資料が毎年変わってくるからなのですが、
それでも、農産物の日本一の都道府県、水産物の漁獲高
その他もろもろ含めても、
小中学校の学習に関係あるような項目は
毎年一ヶ所か二ヶ所位の変更点しかないものなのです。
それが、今年は大きく変わっています。

例えばこんな感じです。
米の生産日本一は新潟から北海道へ
鶏(ブロイラー)の生産日本一は、鹿児島から茨城へ
キャベツの生産日本一は、愛知から群馬へ
みかんの生産日本一が、愛媛から和歌山へ

原油の最大の輸入相手国が、アラブ首長国連邦からサウジアラビアへ
工業地帯ごとの生産額の順位が変わり、
今まで全国3位だった、阪神工業地帯を抜いて
関東内陸工業地域が全国3位に。

今、地理を習っている5年生も
昨年、地理を学んだ6年生も覚え直しです。

「そんなの困る。どうにかしてよ」
って生徒にも言われたんですが、
こればっかりは私にはどうにも出来ません。

生徒達も頑張っているから、気の毒だなとは思うんですが、
地理を学ぶときに避けられないことではありますよね。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-26 22:28 | 塾の仕事を通じて

ジェダイの世代

以前、トミー・ハートというドイツ人のシンガーについての記事を書きました。
その彼が在籍するドイツのロックグループFair Warningの
6年半ぶりになるアルバムが発売になりました。
(実は本当の発売日は明日ですが、一日早く発売される店で入手しました。)

2000年に解散した彼らが再結成するというニュースを耳にした一年前から、
アルバムが発売される今日がくるのを待ちわびていましたが、
期待通りに素晴らしい作品で、待った甲斐がありました。
これから数十回と聞き込むでしょうが、
聞くたびに新しい感慨が浮かんでくるような素晴らしい曲が詰まっています。
さすがFair Warningという感じです。

大学一年で彼らの1stアルバムを手にしてから
彼らがアルバムを発売する年には必ず
何か人生を左右するような出来事が起こってきたのですが、
さて、今年も何か起こるものでしょうか?
出来ることなら、いいことがいいんですけどね。


さて、そのFair Warningのアルバムの中に
「Generation Jedi」という曲があります。
文字通り「ジェダイの世代」という意味ですが、
勿論「ジェダイ」というのは、
映画「スターウォーズ」シリーズの「ジェダイの騎士」のことです。

アルバムの歌詞対訳をみても、
謎かけのようでいまいちよく分からないのですが、
雑誌のインタニューで、
曲を作ったバンドのギタリスト、
ヘルゲは「父がスターウォーズのファンで、
父が子供の頃スキだった作品の新シリーズを子供と一緒に鑑賞する事がある。
そんな今の時代について書いた曲」と語っています。

確かに、「スターウォーズ」シリーズは、とても長いシリーズなので
親子2世代で楽しむことが出来る作品だと思うのですが、
どうも曲調や歌詞を考えてみると、
ただそれだけではないものを感じます。
親子一緒に、同じことを楽しむというのは確かに素晴らしいことです。
勿論そうに違いないのですが、
恐らくこの曲には別の意味が含まれているように感じるのです。

私が感じたのは、「時代の閉塞感」です。
自分たち「ジェダイの世代」は、
何もかも完成された今の世の中で
自分が入り込む隙がない。
そんな世界で自分はどうやって生きていったらいい?
そんな思いが込められているように思うのです。

親子で同じことを楽しむというのは、
それだけその社会に新しいことが生み出されていない証。
もともと、時代がどんどん変わっていけば
世代間の格差が当然あるわけで
やっぱり、年配者が「今の若い奴らはよくわからん。」というのが
普通の状態だと思うのです。
世代間には隔たりがある。それが当たり前なのにそうなっていない。
新しいものがあまり生み出されていない。

実際今の流行って、
何だか昔の流行が少し形を変えてやって来ているだけ
そんな感じもします。

コンピュータとか携帯電話とか
何かをするための「道具」はどんどん進歩していきますが
その「何か」はあまり変わってないような気がします。

話は変わりますが
もう数十年もすれば、
オリンピックなどのスポーツの多くで
世界記録が更新できなくなってしまう。
そんな説もあるそうです。

ちょっと大袈裟な言い方になりますが
もう、ほとんどのものが行き着くところまできてしまった。
今はそういう時代なのかもしれないです。

子供の頃
21世紀ってまるで「未来の世界」のように思っていました。
でも、実際21世紀になってみたら
そんなに子供の頃の生活と変わってないような気がします。
変わったのは、「学校に行く」が「仕事に行く」に変わったくらい。
少なくても私個人については、21世紀は「未来の世界」じゃ無かったです。

新しい世代は、何か新しいものを生み出して
新しい価値観をもって、そのことに達成感もっていくものだと思います。

前の世代が作ってきたものを受け継いで、
自分たちも何か新しいものをその上に積み上げた。
そう思えることで、誇りや責任感を感じられるのではないでしょうか?

でも、前の世代までに
世の中にあった「新しいもの」がほとんど掘り尽くされてしまった。
残っているわずかな「新しいもの」は、
今の世代には見つけ出すのが困難になっている。

そんな状態に陥っている世代(私たちも含めて)
これを「ジェダイ世代」と表しているように感じます。
かなり主観が入ってしまいましたが、
そういう閉塞感って今の世界には結構あると思うのです。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-25 23:31 | 日常の出来事

正義って? 正しいって?

私の好きな小説家の一人に田中芳樹さんがいます。
田中さんの作品については、私の「読書評」で紹介しているので
興味のある方はそちらを見ていただくとして、
その田中さんの作品の中でこういうくだりがでてきます。

「"正義は必ず勝つ"というのは”強い者は必ず勝つ”
というものよりはるかに危険です。」

これは、「アルスラーン戦記」という作品の中で、
主人公の王子に、軍師であり教育係でもある青年が語る言葉なのですが、
この作品を読んでいた頃は高校生、
あまり言葉の意味がピンと来ませんでした。

でも最近、この本を読み返してみて、
今はとても深い意味のある言葉だなと感じます。

人間ってたいていの人は自分が悪いと自覚していたら
そんなに悪いことは出来ないものだと思います。
(最近の事件を見ると「そうとも限らない」とも思いますが…)

やはり人間がとことん悪事を働けるときというのは
「自分は正しいと信じ込んでいるとき」ではないでしょうか?

オウム真理教がかつておこした犯罪の数々。
まともな人間から見れば、あり得ないような事を実行しています。
非人間的で残酷な事件もあれば、
小学生が考えるような馬鹿馬鹿しい幼稚な事件もありますが、
どれも教団の教えが正しいと信じ込んでいるからできることです。

宗教そのものを否定するつもりは全くありませんが
「宗教的な正しさ」には説明も証明もいりません。
宗教には、たとえ非現実的なことでもそれを信じ込ませる力がある。
これは事実だと思います。

宗教の正しさを信じ込んだ人々が
ときに恐ろしい事件を引き起こすことは
歴史の中でも度々あることです。

また、「悪事を働いている」とかそういうことでなくても
日常の中で「自分は正しい」と信じ込んでいるときは
自分の考えを押し通そうとして、
まわりと衝突する場合が私にはあります。
「自分が正しい」と思うと何だか引っ込みがつかなくなるし、
「自分が正しいのだから、自分の意見が通るべきだ。」とつい思ってしまうのです。
でも、「何が正しいのか?」というのは明確な基準のないものですよね。

どんな世界で生きていても、その世界の常識やルールに「正しさ」は影響されます。
だから、詳しく知っているわけではないですが、
恐らく
日本人が正しいと信じていることの中には
外国では全く通用しないものあるでしょうし、
外国人は正しいと信じているものが、日本ではそうではない。
ということもあると思います。
一方で、人間であれば誰にでも通じる「普遍的な正義」のようなものも
あるのではないかとも思います。

こうして考えてみると
私が正しいと信じているものが
どのくらい世間で通用するものなのかもわからなくなってきます。

ただ、それでも生きている以不、
自分が正しいと信じるものを基準として
生きていくしかないようにも思います。
これが信じられなくなってきたら、
疑心暗鬼に陥って生きていけなくなりそうですから。

でもその場合も自分の正しさを信じ込むのではなく、
まわりの意見も採り入れながら
軌道修正しながら、
「自分の正しさ」と「世間の正しさ」のバランスをとっていく。
ということがいいのではないかと感じます。
何となくそういう考えかた自体がとても日本的で
外国では通用しないような気もするんですが…。

こんな風に考え出したら本当に堂々巡りになってしまいます。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-24 22:40 | 日常の出来事

広島港花火大会

f0003933_20414137.jpg
毎年の夏の風物詩。広島港花火大会に行ってきました。
ここ数日西日本では大雨続きで、
開催が心配されましたが当日はいい天気。
心地よい風も吹いていて、とても楽しい時間が過せました。
昨年、会場のすぐ近くに引っ越したので、
私たちは幸運なことに歩いて会場まで行くことができます。

8000発の花火の勢いというか、迫力というのはいつ見ても凄くて、
ウチの上の娘は、「大きな音がして恐い。帰りたい。」と泣き出す始末。
確かに、腹に響くような大きな音がしてましたから、
子供は恐いかも知れません。周りでも泣いている子供がちらほら見られました。

他の花火大会にはあまりいったことが無いのですが、
ここの花火はとてもバリエーションが豊富で、
大玉の花火の他にもさまざまな花火が空に描かれて、
その度にあちこちで「あ、ボールだ。」とか
「あ、眼鏡だ。」とか声が上がっていました。

でもやっぱり、花火の目玉は大玉花火。
空を覆うほどの大きな大玉花火が何発も打ち上がると
会場から一斉に歓声があがり、その後大きな拍手が響きます。
私たちは港に沿って走る湾岸道路(勿論封鎖されています。)
に座り込んでいたのですが、
そこにいた数千人(多分)の人が同じように
同じことを楽しんでいるということの一体感に
とても心地よさを感じました。

そんな広島港の花火大会ですが、
残念なのは、会場までの交通アクセスが良くないことです。
会場近くの一帯の道路は数キロ四方に渡って通行止めになっているので、
会場までは路面電車か路線バスを使うしかありません。
でも、どちらも「とても子供を連れていけない。」と感じるほど
すし詰め状態になります。
ですから、混雑を避ける為に花火大会半ばで帰宅しようとする人が多いのです。
私たち家族も一昨年は路面電車を利用したのですが、
小さい子がいるので帰りはとても路面電車を使う気になれなくて
タクシーを拾える場所まで子供を抱えて歩いたことがあります。
その時は「もう二度と行くもんか」と思ったものです。

花火大会の一番のクライマックスの最後の大玉花火があがる頃には
私たちの周りも、人がどんどん減って多い時の3分の1位になっていました。
私たちは家が近いので、幸い最後まで見られるのですが、
多くの人が一番いい場面を見られずに帰ってしまいます。
何とかみんなが気持ち良く見ることができるように
交通機関の問題を行政に考えて欲しいものです。


ところで、このブログを初めて最初に書いたのが
ちょうど一年前のこの花火大会の記事でした。
いつまで続くことか?
と思いながらブログを続けていましたが、
不定期ながら一年続きました。
また来年もこの花火大会の記事を書けるように
継続していきたいと思います。

おつき合いのほどよろしくお願いいたします。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-23 20:41 | 日常の出来事

数字のマジック

私が勤めている塾は中学受験専門の進学塾です。
ですが、いわゆる「教育ママ」のような方は
私の知る限りほとんどいません。

ですが、やはり親は子供が心配ですから、
今の子供の状態がどうなのかを知りたいというのが当然です。
もちろんそういう方には電話や面談などで今の子どもたちの状態をお伝えするのですが、
私たちがお話しした内容よりも、テストの点数の方を気にされる方も結構おられます。

確かにテストの結果というのは子どもたちの力をはかる尺度のひとつではあるのですが、
あくまで、「ひとつ」でしかありません。
100点を取った子供が、50点の子供の2倍かしこい訳ではありません。
テストの難易度も得点に関係あるのですから、得点は問題の内容によって操作できるのです。
50点だから必ずしも「出来ていない」訳ではないし、
100点だから「十分わかっている」とは限らないのです。

以前勤めていた塾は中学生がメインでしたので、
当然定期テスト前には対策授業を行っていました。
ところがいくつかの学校については、
「塾のテスト対策は必要ない」というケースもありました。
というのも、学校の先生がテスト前にプリントを配って、
そこからそっくりそのまま出題されるのです。
私が見た限りそのプリントだけでは十分に範囲を網羅しているとは思えなかったし、
そのプリントをただ丸覚えしただけで実力がつくとは思えないのですが、
生徒達はテストで得点がとりたいのでそのプリントばかりやっています。
それで実際に高得点がとれてしまうのです。
そのときの社会科のテストは平均点が90点だったそうです。
それで「自分たちは実力がある。」と思いこんでしまうのですから、
何のためにテストをやるのかわからないと感じます。

広島では4年前に中学生の通知表の評価が
「相対評価」から「絶対評価」に変わりました。
ただ、その移行に反対意見もあって、いくつかの中学校では一時期、
移行措置として「相対評価」と「絶対評価」の二つの通知表を出していました。
私が当時勤めていた塾のエリアでもそういう中学があったのですが、
そのときある生徒の通知票の成績が、10段階評価で
「絶対評価」が10、が「相対評価」が3   だったのです。
その生徒のお父さんはひどく怒って学校に抗議をし、
それでも納得行かなくて私の所にその通知票を持ってきてくださったのです。
私もこれはおかしいと思いました。

こんな風に数字での評価が、子供の実力を正しく反映していない場合があるのです。

先程書いたように、テストの点数というのは問題でかなり変わります。
だから「偏差値」という数値があるのですが
「偏差値」だって、絶対的な指標ではありません。
今はそんなにいませんが、以前は
「できるだけ偏差値の高い学校に行かせたい。」
と考える保護者の方も結構おられました。
でも偏差値ってテストごとに変わるわけです。

あるテストの偏差値と別のテストの偏差値は
問題の難易度や受験者が違うわけですから
当然違います。
でもそのことをご存じない保護者の方がよくおられます。

偏差値で学校を判断するのは間違っていると私は思いますし、
そのことを保護者の方にも理解いただきたいです。
(たいていの方はもちろん知っておられますが。)

何にせよ、子供の一生を左右するようなことを
「数字」だけで決めるのはどうかと思います。
「数字」は目安にはなりますが、絶対的なものではないのです。

私自身もよく錯覚します。日々思い返しては反省です。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-20 00:16 | 塾の仕事を通じて

ネパールのビール(続)

昨日のネパールのビールの話についてです。

昨日の記事を読み返してみると
本文のあらすじを追いかけただけなので
説明不足もあるように感じます。
そんなところも踏まえながら私が感じたことを書ければと思います。

ますこの話を読んで感じたのは世の中の不条理さです。
チェトリ君というこの少年は
地元に学校か無いのでこの村に来て学校に行っています。
下宿といっても土間にベッドがあるだけの部屋で
電気も無く、机の無いので
ベッドの上で小さなランプをつけて勉強をします。
そんな純朴で真面目な少年です。

一方で私たちは
この彼が一生を狂わすかもしれないほどの大金を
普通に働いているだけで手に入れることが出来ます。
勿論物価が違うから当然ではあるのですが、
筆者がビールが飲みたいと渡した
小銭よりちょっとマシという程度の金額がネパールでは大金、
恐らく村人も「自分だったら逃げたに違いない。」
そう思えるだけの金額だったからこそ、
「彼は逃げた」といったのでしょう。

ネパールにはまだこの村のように電気もガスも水道も無い町が多くあるようです。
そして、不幸なことに自分たちの生活水準が世界から見ると
とても低いと言うことを知っている。
彼らにとってネパール人としてごく普通の生活自体が「不幸だ」と感じざるを得ない現状。そんな中に彼のような真面目な少年がいることに不条理を感じるのです。
私も他の日本の人間も、子供のことから大して苦労せずに今の生活を手に入れた。
でも恐らく彼にはどんなに真面目に学んでもほとんどそれを生かす場が無いはず。
そういう国がまだ世界には多いのだということを感じざるを得ません。

もうひとつは
チェトリ君の純粋さです。私を含めて日本の人間でここまで出来る人がいるでしょうか?彼はきっと見知らぬ外国から来た筆者に喜んで欲しかっただけなのでしょう。
彼なりに自分に出来ることを考えて、「ビールを買ってくる」ことをしようと考えたと思います。
片道90分(勿論これも大変な道のりですが、)ならともかく、峠を三つも越えて往復で三日もかけて、筆者との約束を守ろうとして彼の一生懸命さに感動しました。
そして、先生にまで「彼は逃げたのだ」といわれている間も、
彼は筆者にためにビールを運んでいた。そのひたむきさを思うと感心するし、気持ちのまっすぐさに羨ましさを感じます。
大人になってから彼のように一つのことに必死になったことがないと気づかされたのです。

彼はビールを割ってしまってトボトボと歩きながら何を思っていたのでしょう。


この話は昭和60年の出来事。
ですから 今、彼は私より数才年上で、37歳か38歳位になっているはずです。

ここ数年ネパールでは、政情不安で、政府と社会主義者との内戦が続き、
非常に治安が悪くなっていると聞きます。

彼は今もネパールで平和に暮らしているのでしょうか?

知りたいような知りたくないような気持ちです。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-16 21:51 | 塾の仕事を通じて

ネパールのビール

昨日に続いて今日も国語の教材の話です。

今日小6の問題演習でとりあげた
「ネパールのビール」という随筆についての話題です。

こんなお話です。

昭和60年の夏、カメラマンである筆者がネパールの村に取材に行った時のこと。
ろくに道の無いヒマラヤの麓の村での取材であったので、
最低限の装備しかもちこめません。
嗜好品のビールなどもってのほかでした。

一日の取材が終わったあとで汗だくになった筆者たちは
きれいな小川を見つけ、そこで
「この川でビールを冷やして飲んだら、きっとうまいだろうな。」と
思わず口にします。
 すると、それを聞いていた地元の少年チェトリ君が「自分が買ってきてあげる。」と名乗り出ます。ビールを売っている町までは片道90分。地元の少年でも楽な道ではありません。筆者は「大変だから」と一度は断りますが、少年の勢いにおされて買い物を頼み、少年は日が落ちたころビールを買って戻ってきました。
 
 その翌日、撮影をしている筆者たちの所にチェトリ君がやって来て、
「今日はビールはいらないのか?」と聞いてきます。
「明日は学校が休みだから、昨日よりたくさんビールを買ってきてあげる」
というのです。
この日も「大変だからいいよ」と断る筆者達ですが、またしても少年の熱心さに負けて、昨日より多くのお金とリュックサックを預けて送り出したのです。

ところが今度は、深夜になっても彼は帰ってきません。
彼の身が心配になった筆者は村の人に相談します。
ところが村人は「そんな大金を渡したのなら、きっと逃げたのに違いない。」
と言います。

彼は故郷から、学校に行く為にこの村に下宿していて、
大金を手に入れたからきっと故郷に戻って、
家族と首都のカトマンズにでも行こうとしているのだ。
というのです。

次の日も、その次の日も彼は戻ってこず、
筆者は彼が通っている学校の先生に相談します。
しかし、先生の意見も村の人と同じでした。
「彼は逃げたのだ。だから事故などではない。心配ない。」というのです。

筆者は、ひどい後悔にさいなまれます。
つい、日本と同じ感覚で、ネパールの少年にとんでもない大金を渡してしまった。
彼のような良い少年の一生を狂わせてしまった。
彼はお金をもって逃げたのではない。事故なのだ。
そう思いたかったが、そうなると彼は死んでいるかも知れない。
それはあってはいけない。

そんな三日目の深夜、彼の宿舎のドアを誰かが激しくノックします。
「最悪のしらせか?」と思ってドアを開けると
チェトリ君がヨレヨレの姿で立っています。
彼がビールを買いに行った町にはビールが三本しかなく、
峠を4つも越えた別の町に買いに行っていたというのです。
「結局10本買ったけど、途中で転んで3本割ってしまった。」
と割れた破片と釣り銭を彼に見せます。
彼は筆者との約束をちゃんと守ったのです。
彼の姿をみて、筆者は彼を抱きしめて泣いたそうです。
そして最後に「私はこれまでにこんなに色々反省させられたことはない」
と語っています。

こんなお話です。

つい説明に力が入って長い文章になってしまいました。
私の感想を書こうと思ったのですが、ここまでで疲れてしまいました。

感想はまた明日ということで…。

みなさんはどう思われたでしょうか?
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by soul_doctor2005 | 2006-07-15 23:46 | 塾の仕事を通じて

ひとりよがり

「生きるヒント」などの作品で知られる五木寛之さんの
「愛する」という文章が子供の教材に載っていました。

この文章をあらかじめ子どもたちに読んできてもらって
そこからテストをするということにしていたのですが
「愛する」というテーマの文章は子どもたちにはわかりにくかったようで、
授業前に「意味が分からないから、一から教えてくれ」
という子どもたちに囲まれてちょっと困りました。
授業の2分前に来ても全部教えられないですから
参ってしまいました。

この文章、子供には難解だったようですが、
読んでみて私自身考えさせられるところが多かったです。

おおざっぱにいうとこんな内容です。
世の中には
「私がこれだけあなたを愛しているのに、あなたは私を愛してくれない。それは不公平だ。」
と考える人がいるが、それはおかしい。
なぜなら、「愛する」という行為は、
あくまで自分個人のもので相手には一切関わりのないこと。
だから、「愛する」というのは「愛させてもらう」というのが正しく、
相手に見返りを求めるような事ではない。
そんな内容です。

確かにそのとおりと思う一方、自分がいかに「おかしい」人になっているかを思いました。
家庭では、自分の子供に対して「これだけ注意しているのに、言うことを聞いてくれない。」と
子どもたちをしょっちゅう叱りつけてますし、
塾でも、生徒達に対して「これだけ一生懸命教えているのに、全然頑張ってくれない。」と思います。

五木寛之さんの文書を読んでいると
自分がいかに「ひとりよがり」な考えを持っている人間なのかを感じます。

私の子供は私の子供になりたいと思って生まれてきたわけじゃないし、
塾の生徒達は、わざわざ授業料を払って私の指導を受けてくれているのです。
だから、「育てさせてもらっている」し、「教えさせてもらっている」
そう考えるべきですよね。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-14 12:29 | 塾の仕事を通じて

学校説明会に行って感じたこと。

昨日、一昨日と立て続けに
二つの女子校の学校説明会に行ってきました。

中学入試は高校入試と違って、
塾に行かないで受験をするという人はほとんどいませんから
私立学校の説明会に対する力の入れようはかなりのものです。
(といっても、学校によってかなり違いますが…。)

他の地域はよく知りませんが、
広島地区では、
説明会に行くとその説明会の資料は当然としても
その学校の名前入りの文房具とか
傘などのグッズやお菓子のなどの粗品などをもらえる場合がほとんどです。
中には交通費が出る学校もありますし、食事が用意されている場合もあります。

それだけ、生徒獲得に力が入っているというわけですが、
この少子化の時代ですから、私学の先生方も大変なんだと思います。
「民間企業のサラリーマンよりよっぽど大変なんじゃないか」
というような学校もあります。

説明会で説明を聞いていて色々感じることがあったのですが、
月曜日(10日)の説明会では
入試の合格者と実際の入学者の数の資料を示している時に
説明をしている先生が、「歩止まり(多分こう表記するのだと思います。)があった。」という表現を使ったこと。
「歩止まり」という言葉を、「合格したのに入学しなかった子供」という意味でつかったのだと思うのですが、何だか生徒を「数字」だけで見ているような違和感を感じました。工場で製品を作る時に発生する不良品を「歩詰まり」といいますが、何となくその言葉を思い出してちょっと嫌な感じがしました。

それから、今回の2校どちらも、とにかく「学力ありき」の発言が多かったこと。
「合格してから生徒の力を伸ばしていく。」というよりも
「成績の良い生徒を合格させたい。」というように考えているように感じ。
つい、説明会後のアンケートに、
「自分たちなら、入学した生徒に力をつけることが出来るということを
具体的に示して欲しかった。」
というような意味のことを書いて提出しました。(勿論「記名」です。)

どちらの学校も確かに素晴らしいところも感じたのですが。
どちらの学校も「入口」と「出口」を先に決めてしまって、
そのために「その間をどうするか?」という考え方をしているように感じました。
学校の考える「入口」は「成績の良い生徒を入れること」で
「出口」は「少しでも有名な大学に合格させること。」です。
私はそう感じました。

ここ数年この地域の色々な学校に行って共通に感じるのが、
「うちの学校は新しい取り組みをしている。大きく変わりつつある。」と
どの学校もが一生懸命訴えていることです。
「改革」をすることやそれをアピールすることはいいことだと思うのですが、
大抵の場合その方法論はほぼ同じです。
どこも大抵、「改革」の一番の目玉としているのが
「カリキュラムの改正」なのです。
さらに付け加えるとしたらその「改正」の内容は、
「成績別クラス編成」、「選択科目の増加」、「授業時間数の増大」
「夏季や冬期休暇の間の補習授業」などでどこも大して変わりません。
毎年説明会に行っているので、正直「またか」って思います。

ただ、それも無理も無いような気もします。
どの学校も「入口」と「出口」が同じなのですから
その間に敷く「レール」が似通って当然です。
でも、子供たちのために先生方にももっと考えてほしいと感じます。

子供はさまざまですし、将来について色んなことを考えているわけですから
「入口」もそうですが、「出口」をもっと広く考えてあげて欲しいと思うのです。
大学進学以外の選択をする生徒もいるだろうし、もっと先の将来も考えてやって欲しいです。
この二日の話を聞く限りでは、
この二つの学校は何だか「大学に行く為の予備校」みたいに感じました。
もちろんそれだけではないと思うのですが、
他の部分は説明会からは伝わってこないのです。
説明会で説明しないのだから、
他の部分は
「考えていない」のか
「重視していない」のか
どちらかだろうとつい考えてしまいます。

私にも娘がいますが、説明会に参加してみて
「自分の子供は行かせたくないな」って正直感じました。

とはいえ、公立校はもっとひどいのかもしれません。
私の娘が中学生になるのはまだかなり先のことですから、
今は何とも言えないのですが…。

私の娘も私学に通うようになるのでしょうか…?
ちょっと心配になってきました。
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by soul_doctor2005 | 2006-07-13 03:02 | 未分類