ジェダイの世代

以前、トミー・ハートというドイツ人のシンガーについての記事を書きました。
その彼が在籍するドイツのロックグループFair Warningの
6年半ぶりになるアルバムが発売になりました。
(実は本当の発売日は明日ですが、一日早く発売される店で入手しました。)

2000年に解散した彼らが再結成するというニュースを耳にした一年前から、
アルバムが発売される今日がくるのを待ちわびていましたが、
期待通りに素晴らしい作品で、待った甲斐がありました。
これから数十回と聞き込むでしょうが、
聞くたびに新しい感慨が浮かんでくるような素晴らしい曲が詰まっています。
さすがFair Warningという感じです。

大学一年で彼らの1stアルバムを手にしてから
彼らがアルバムを発売する年には必ず
何か人生を左右するような出来事が起こってきたのですが、
さて、今年も何か起こるものでしょうか?
出来ることなら、いいことがいいんですけどね。


さて、そのFair Warningのアルバムの中に
「Generation Jedi」という曲があります。
文字通り「ジェダイの世代」という意味ですが、
勿論「ジェダイ」というのは、
映画「スターウォーズ」シリーズの「ジェダイの騎士」のことです。

アルバムの歌詞対訳をみても、
謎かけのようでいまいちよく分からないのですが、
雑誌のインタニューで、
曲を作ったバンドのギタリスト、
ヘルゲは「父がスターウォーズのファンで、
父が子供の頃スキだった作品の新シリーズを子供と一緒に鑑賞する事がある。
そんな今の時代について書いた曲」と語っています。

確かに、「スターウォーズ」シリーズは、とても長いシリーズなので
親子2世代で楽しむことが出来る作品だと思うのですが、
どうも曲調や歌詞を考えてみると、
ただそれだけではないものを感じます。
親子一緒に、同じことを楽しむというのは確かに素晴らしいことです。
勿論そうに違いないのですが、
恐らくこの曲には別の意味が含まれているように感じるのです。

私が感じたのは、「時代の閉塞感」です。
自分たち「ジェダイの世代」は、
何もかも完成された今の世の中で
自分が入り込む隙がない。
そんな世界で自分はどうやって生きていったらいい?
そんな思いが込められているように思うのです。

親子で同じことを楽しむというのは、
それだけその社会に新しいことが生み出されていない証。
もともと、時代がどんどん変わっていけば
世代間の格差が当然あるわけで
やっぱり、年配者が「今の若い奴らはよくわからん。」というのが
普通の状態だと思うのです。
世代間には隔たりがある。それが当たり前なのにそうなっていない。
新しいものがあまり生み出されていない。

実際今の流行って、
何だか昔の流行が少し形を変えてやって来ているだけ
そんな感じもします。

コンピュータとか携帯電話とか
何かをするための「道具」はどんどん進歩していきますが
その「何か」はあまり変わってないような気がします。

話は変わりますが
もう数十年もすれば、
オリンピックなどのスポーツの多くで
世界記録が更新できなくなってしまう。
そんな説もあるそうです。

ちょっと大袈裟な言い方になりますが
もう、ほとんどのものが行き着くところまできてしまった。
今はそういう時代なのかもしれないです。

子供の頃
21世紀ってまるで「未来の世界」のように思っていました。
でも、実際21世紀になってみたら
そんなに子供の頃の生活と変わってないような気がします。
変わったのは、「学校に行く」が「仕事に行く」に変わったくらい。
少なくても私個人については、21世紀は「未来の世界」じゃ無かったです。

新しい世代は、何か新しいものを生み出して
新しい価値観をもって、そのことに達成感もっていくものだと思います。

前の世代が作ってきたものを受け継いで、
自分たちも何か新しいものをその上に積み上げた。
そう思えることで、誇りや責任感を感じられるのではないでしょうか?

でも、前の世代までに
世の中にあった「新しいもの」がほとんど掘り尽くされてしまった。
残っているわずかな「新しいもの」は、
今の世代には見つけ出すのが困難になっている。

そんな状態に陥っている世代(私たちも含めて)
これを「ジェダイ世代」と表しているように感じます。
かなり主観が入ってしまいましたが、
そういう閉塞感って今の世界には結構あると思うのです。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-25 23:31 | 日常の出来事

正義って? 正しいって?

私の好きな小説家の一人に田中芳樹さんがいます。
田中さんの作品については、私の「読書評」で紹介しているので
興味のある方はそちらを見ていただくとして、
その田中さんの作品の中でこういうくだりがでてきます。

「"正義は必ず勝つ"というのは”強い者は必ず勝つ”
というものよりはるかに危険です。」

これは、「アルスラーン戦記」という作品の中で、
主人公の王子に、軍師であり教育係でもある青年が語る言葉なのですが、
この作品を読んでいた頃は高校生、
あまり言葉の意味がピンと来ませんでした。

でも最近、この本を読み返してみて、
今はとても深い意味のある言葉だなと感じます。

人間ってたいていの人は自分が悪いと自覚していたら
そんなに悪いことは出来ないものだと思います。
(最近の事件を見ると「そうとも限らない」とも思いますが…)

やはり人間がとことん悪事を働けるときというのは
「自分は正しいと信じ込んでいるとき」ではないでしょうか?

オウム真理教がかつておこした犯罪の数々。
まともな人間から見れば、あり得ないような事を実行しています。
非人間的で残酷な事件もあれば、
小学生が考えるような馬鹿馬鹿しい幼稚な事件もありますが、
どれも教団の教えが正しいと信じ込んでいるからできることです。

宗教そのものを否定するつもりは全くありませんが
「宗教的な正しさ」には説明も証明もいりません。
宗教には、たとえ非現実的なことでもそれを信じ込ませる力がある。
これは事実だと思います。

宗教の正しさを信じ込んだ人々が
ときに恐ろしい事件を引き起こすことは
歴史の中でも度々あることです。

また、「悪事を働いている」とかそういうことでなくても
日常の中で「自分は正しい」と信じ込んでいるときは
自分の考えを押し通そうとして、
まわりと衝突する場合が私にはあります。
「自分が正しい」と思うと何だか引っ込みがつかなくなるし、
「自分が正しいのだから、自分の意見が通るべきだ。」とつい思ってしまうのです。
でも、「何が正しいのか?」というのは明確な基準のないものですよね。

どんな世界で生きていても、その世界の常識やルールに「正しさ」は影響されます。
だから、詳しく知っているわけではないですが、
恐らく
日本人が正しいと信じていることの中には
外国では全く通用しないものあるでしょうし、
外国人は正しいと信じているものが、日本ではそうではない。
ということもあると思います。
一方で、人間であれば誰にでも通じる「普遍的な正義」のようなものも
あるのではないかとも思います。

こうして考えてみると
私が正しいと信じているものが
どのくらい世間で通用するものなのかもわからなくなってきます。

ただ、それでも生きている以不、
自分が正しいと信じるものを基準として
生きていくしかないようにも思います。
これが信じられなくなってきたら、
疑心暗鬼に陥って生きていけなくなりそうですから。

でもその場合も自分の正しさを信じ込むのではなく、
まわりの意見も採り入れながら
軌道修正しながら、
「自分の正しさ」と「世間の正しさ」のバランスをとっていく。
ということがいいのではないかと感じます。
何となくそういう考えかた自体がとても日本的で
外国では通用しないような気もするんですが…。

こんな風に考え出したら本当に堂々巡りになってしまいます。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-24 22:40 | 日常の出来事

広島港花火大会

f0003933_20414137.jpg
毎年の夏の風物詩。広島港花火大会に行ってきました。
ここ数日西日本では大雨続きで、
開催が心配されましたが当日はいい天気。
心地よい風も吹いていて、とても楽しい時間が過せました。
昨年、会場のすぐ近くに引っ越したので、
私たちは幸運なことに歩いて会場まで行くことができます。

8000発の花火の勢いというか、迫力というのはいつ見ても凄くて、
ウチの上の娘は、「大きな音がして恐い。帰りたい。」と泣き出す始末。
確かに、腹に響くような大きな音がしてましたから、
子供は恐いかも知れません。周りでも泣いている子供がちらほら見られました。

他の花火大会にはあまりいったことが無いのですが、
ここの花火はとてもバリエーションが豊富で、
大玉の花火の他にもさまざまな花火が空に描かれて、
その度にあちこちで「あ、ボールだ。」とか
「あ、眼鏡だ。」とか声が上がっていました。

でもやっぱり、花火の目玉は大玉花火。
空を覆うほどの大きな大玉花火が何発も打ち上がると
会場から一斉に歓声があがり、その後大きな拍手が響きます。
私たちは港に沿って走る湾岸道路(勿論封鎖されています。)
に座り込んでいたのですが、
そこにいた数千人(多分)の人が同じように
同じことを楽しんでいるということの一体感に
とても心地よさを感じました。

そんな広島港の花火大会ですが、
残念なのは、会場までの交通アクセスが良くないことです。
会場近くの一帯の道路は数キロ四方に渡って通行止めになっているので、
会場までは路面電車か路線バスを使うしかありません。
でも、どちらも「とても子供を連れていけない。」と感じるほど
すし詰め状態になります。
ですから、混雑を避ける為に花火大会半ばで帰宅しようとする人が多いのです。
私たち家族も一昨年は路面電車を利用したのですが、
小さい子がいるので帰りはとても路面電車を使う気になれなくて
タクシーを拾える場所まで子供を抱えて歩いたことがあります。
その時は「もう二度と行くもんか」と思ったものです。

花火大会の一番のクライマックスの最後の大玉花火があがる頃には
私たちの周りも、人がどんどん減って多い時の3分の1位になっていました。
私たちは家が近いので、幸い最後まで見られるのですが、
多くの人が一番いい場面を見られずに帰ってしまいます。
何とかみんなが気持ち良く見ることができるように
交通機関の問題を行政に考えて欲しいものです。


ところで、このブログを初めて最初に書いたのが
ちょうど一年前のこの花火大会の記事でした。
いつまで続くことか?
と思いながらブログを続けていましたが、
不定期ながら一年続きました。
また来年もこの花火大会の記事を書けるように
継続していきたいと思います。

おつき合いのほどよろしくお願いいたします。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-23 20:41 | 日常の出来事

数字のマジック

私が勤めている塾は中学受験専門の進学塾です。
ですが、いわゆる「教育ママ」のような方は
私の知る限りほとんどいません。

ですが、やはり親は子供が心配ですから、
今の子供の状態がどうなのかを知りたいというのが当然です。
もちろんそういう方には電話や面談などで今の子どもたちの状態をお伝えするのですが、
私たちがお話しした内容よりも、テストの点数の方を気にされる方も結構おられます。

確かにテストの結果というのは子どもたちの力をはかる尺度のひとつではあるのですが、
あくまで、「ひとつ」でしかありません。
100点を取った子供が、50点の子供の2倍かしこい訳ではありません。
テストの難易度も得点に関係あるのですから、得点は問題の内容によって操作できるのです。
50点だから必ずしも「出来ていない」訳ではないし、
100点だから「十分わかっている」とは限らないのです。

以前勤めていた塾は中学生がメインでしたので、
当然定期テスト前には対策授業を行っていました。
ところがいくつかの学校については、
「塾のテスト対策は必要ない」というケースもありました。
というのも、学校の先生がテスト前にプリントを配って、
そこからそっくりそのまま出題されるのです。
私が見た限りそのプリントだけでは十分に範囲を網羅しているとは思えなかったし、
そのプリントをただ丸覚えしただけで実力がつくとは思えないのですが、
生徒達はテストで得点がとりたいのでそのプリントばかりやっています。
それで実際に高得点がとれてしまうのです。
そのときの社会科のテストは平均点が90点だったそうです。
それで「自分たちは実力がある。」と思いこんでしまうのですから、
何のためにテストをやるのかわからないと感じます。

広島では4年前に中学生の通知表の評価が
「相対評価」から「絶対評価」に変わりました。
ただ、その移行に反対意見もあって、いくつかの中学校では一時期、
移行措置として「相対評価」と「絶対評価」の二つの通知表を出していました。
私が当時勤めていた塾のエリアでもそういう中学があったのですが、
そのときある生徒の通知票の成績が、10段階評価で
「絶対評価」が10、が「相対評価」が3   だったのです。
その生徒のお父さんはひどく怒って学校に抗議をし、
それでも納得行かなくて私の所にその通知票を持ってきてくださったのです。
私もこれはおかしいと思いました。

こんな風に数字での評価が、子供の実力を正しく反映していない場合があるのです。

先程書いたように、テストの点数というのは問題でかなり変わります。
だから「偏差値」という数値があるのですが
「偏差値」だって、絶対的な指標ではありません。
今はそんなにいませんが、以前は
「できるだけ偏差値の高い学校に行かせたい。」
と考える保護者の方も結構おられました。
でも偏差値ってテストごとに変わるわけです。

あるテストの偏差値と別のテストの偏差値は
問題の難易度や受験者が違うわけですから
当然違います。
でもそのことをご存じない保護者の方がよくおられます。

偏差値で学校を判断するのは間違っていると私は思いますし、
そのことを保護者の方にも理解いただきたいです。
(たいていの方はもちろん知っておられますが。)

何にせよ、子供の一生を左右するようなことを
「数字」だけで決めるのはどうかと思います。
「数字」は目安にはなりますが、絶対的なものではないのです。

私自身もよく錯覚します。日々思い返しては反省です。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-20 00:16 | 塾の仕事を通じて

ネパールのビール(続)

昨日のネパールのビールの話についてです。

昨日の記事を読み返してみると
本文のあらすじを追いかけただけなので
説明不足もあるように感じます。
そんなところも踏まえながら私が感じたことを書ければと思います。

ますこの話を読んで感じたのは世の中の不条理さです。
チェトリ君というこの少年は
地元に学校か無いのでこの村に来て学校に行っています。
下宿といっても土間にベッドがあるだけの部屋で
電気も無く、机の無いので
ベッドの上で小さなランプをつけて勉強をします。
そんな純朴で真面目な少年です。

一方で私たちは
この彼が一生を狂わすかもしれないほどの大金を
普通に働いているだけで手に入れることが出来ます。
勿論物価が違うから当然ではあるのですが、
筆者がビールが飲みたいと渡した
小銭よりちょっとマシという程度の金額がネパールでは大金、
恐らく村人も「自分だったら逃げたに違いない。」
そう思えるだけの金額だったからこそ、
「彼は逃げた」といったのでしょう。

ネパールにはまだこの村のように電気もガスも水道も無い町が多くあるようです。
そして、不幸なことに自分たちの生活水準が世界から見ると
とても低いと言うことを知っている。
彼らにとってネパール人としてごく普通の生活自体が「不幸だ」と感じざるを得ない現状。そんな中に彼のような真面目な少年がいることに不条理を感じるのです。
私も他の日本の人間も、子供のことから大して苦労せずに今の生活を手に入れた。
でも恐らく彼にはどんなに真面目に学んでもほとんどそれを生かす場が無いはず。
そういう国がまだ世界には多いのだということを感じざるを得ません。

もうひとつは
チェトリ君の純粋さです。私を含めて日本の人間でここまで出来る人がいるでしょうか?彼はきっと見知らぬ外国から来た筆者に喜んで欲しかっただけなのでしょう。
彼なりに自分に出来ることを考えて、「ビールを買ってくる」ことをしようと考えたと思います。
片道90分(勿論これも大変な道のりですが、)ならともかく、峠を三つも越えて往復で三日もかけて、筆者との約束を守ろうとして彼の一生懸命さに感動しました。
そして、先生にまで「彼は逃げたのだ」といわれている間も、
彼は筆者にためにビールを運んでいた。そのひたむきさを思うと感心するし、気持ちのまっすぐさに羨ましさを感じます。
大人になってから彼のように一つのことに必死になったことがないと気づかされたのです。

彼はビールを割ってしまってトボトボと歩きながら何を思っていたのでしょう。


この話は昭和60年の出来事。
ですから 今、彼は私より数才年上で、37歳か38歳位になっているはずです。

ここ数年ネパールでは、政情不安で、政府と社会主義者との内戦が続き、
非常に治安が悪くなっていると聞きます。

彼は今もネパールで平和に暮らしているのでしょうか?

知りたいような知りたくないような気持ちです。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-16 21:51 | 塾の仕事を通じて

ネパールのビール

昨日に続いて今日も国語の教材の話です。

今日小6の問題演習でとりあげた
「ネパールのビール」という随筆についての話題です。

こんなお話です。

昭和60年の夏、カメラマンである筆者がネパールの村に取材に行った時のこと。
ろくに道の無いヒマラヤの麓の村での取材であったので、
最低限の装備しかもちこめません。
嗜好品のビールなどもってのほかでした。

一日の取材が終わったあとで汗だくになった筆者たちは
きれいな小川を見つけ、そこで
「この川でビールを冷やして飲んだら、きっとうまいだろうな。」と
思わず口にします。
 すると、それを聞いていた地元の少年チェトリ君が「自分が買ってきてあげる。」と名乗り出ます。ビールを売っている町までは片道90分。地元の少年でも楽な道ではありません。筆者は「大変だから」と一度は断りますが、少年の勢いにおされて買い物を頼み、少年は日が落ちたころビールを買って戻ってきました。
 
 その翌日、撮影をしている筆者たちの所にチェトリ君がやって来て、
「今日はビールはいらないのか?」と聞いてきます。
「明日は学校が休みだから、昨日よりたくさんビールを買ってきてあげる」
というのです。
この日も「大変だからいいよ」と断る筆者達ですが、またしても少年の熱心さに負けて、昨日より多くのお金とリュックサックを預けて送り出したのです。

ところが今度は、深夜になっても彼は帰ってきません。
彼の身が心配になった筆者は村の人に相談します。
ところが村人は「そんな大金を渡したのなら、きっと逃げたのに違いない。」
と言います。

彼は故郷から、学校に行く為にこの村に下宿していて、
大金を手に入れたからきっと故郷に戻って、
家族と首都のカトマンズにでも行こうとしているのだ。
というのです。

次の日も、その次の日も彼は戻ってこず、
筆者は彼が通っている学校の先生に相談します。
しかし、先生の意見も村の人と同じでした。
「彼は逃げたのだ。だから事故などではない。心配ない。」というのです。

筆者は、ひどい後悔にさいなまれます。
つい、日本と同じ感覚で、ネパールの少年にとんでもない大金を渡してしまった。
彼のような良い少年の一生を狂わせてしまった。
彼はお金をもって逃げたのではない。事故なのだ。
そう思いたかったが、そうなると彼は死んでいるかも知れない。
それはあってはいけない。

そんな三日目の深夜、彼の宿舎のドアを誰かが激しくノックします。
「最悪のしらせか?」と思ってドアを開けると
チェトリ君がヨレヨレの姿で立っています。
彼がビールを買いに行った町にはビールが三本しかなく、
峠を4つも越えた別の町に買いに行っていたというのです。
「結局10本買ったけど、途中で転んで3本割ってしまった。」
と割れた破片と釣り銭を彼に見せます。
彼は筆者との約束をちゃんと守ったのです。
彼の姿をみて、筆者は彼を抱きしめて泣いたそうです。
そして最後に「私はこれまでにこんなに色々反省させられたことはない」
と語っています。

こんなお話です。

つい説明に力が入って長い文章になってしまいました。
私の感想を書こうと思ったのですが、ここまでで疲れてしまいました。

感想はまた明日ということで…。

みなさんはどう思われたでしょうか?
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-15 23:46 | 塾の仕事を通じて

ひとりよがり

「生きるヒント」などの作品で知られる五木寛之さんの
「愛する」という文章が子供の教材に載っていました。

この文章をあらかじめ子どもたちに読んできてもらって
そこからテストをするということにしていたのですが
「愛する」というテーマの文章は子どもたちにはわかりにくかったようで、
授業前に「意味が分からないから、一から教えてくれ」
という子どもたちに囲まれてちょっと困りました。
授業の2分前に来ても全部教えられないですから
参ってしまいました。

この文章、子供には難解だったようですが、
読んでみて私自身考えさせられるところが多かったです。

おおざっぱにいうとこんな内容です。
世の中には
「私がこれだけあなたを愛しているのに、あなたは私を愛してくれない。それは不公平だ。」
と考える人がいるが、それはおかしい。
なぜなら、「愛する」という行為は、
あくまで自分個人のもので相手には一切関わりのないこと。
だから、「愛する」というのは「愛させてもらう」というのが正しく、
相手に見返りを求めるような事ではない。
そんな内容です。

確かにそのとおりと思う一方、自分がいかに「おかしい」人になっているかを思いました。
家庭では、自分の子供に対して「これだけ注意しているのに、言うことを聞いてくれない。」と
子どもたちをしょっちゅう叱りつけてますし、
塾でも、生徒達に対して「これだけ一生懸命教えているのに、全然頑張ってくれない。」と思います。

五木寛之さんの文書を読んでいると
自分がいかに「ひとりよがり」な考えを持っている人間なのかを感じます。

私の子供は私の子供になりたいと思って生まれてきたわけじゃないし、
塾の生徒達は、わざわざ授業料を払って私の指導を受けてくれているのです。
だから、「育てさせてもらっている」し、「教えさせてもらっている」
そう考えるべきですよね。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-14 12:29 | 塾の仕事を通じて

学校説明会に行って感じたこと。

昨日、一昨日と立て続けに
二つの女子校の学校説明会に行ってきました。

中学入試は高校入試と違って、
塾に行かないで受験をするという人はほとんどいませんから
私立学校の説明会に対する力の入れようはかなりのものです。
(といっても、学校によってかなり違いますが…。)

他の地域はよく知りませんが、
広島地区では、
説明会に行くとその説明会の資料は当然としても
その学校の名前入りの文房具とか
傘などのグッズやお菓子のなどの粗品などをもらえる場合がほとんどです。
中には交通費が出る学校もありますし、食事が用意されている場合もあります。

それだけ、生徒獲得に力が入っているというわけですが、
この少子化の時代ですから、私学の先生方も大変なんだと思います。
「民間企業のサラリーマンよりよっぽど大変なんじゃないか」
というような学校もあります。

説明会で説明を聞いていて色々感じることがあったのですが、
月曜日(10日)の説明会では
入試の合格者と実際の入学者の数の資料を示している時に
説明をしている先生が、「歩止まり(多分こう表記するのだと思います。)があった。」という表現を使ったこと。
「歩止まり」という言葉を、「合格したのに入学しなかった子供」という意味でつかったのだと思うのですが、何だか生徒を「数字」だけで見ているような違和感を感じました。工場で製品を作る時に発生する不良品を「歩詰まり」といいますが、何となくその言葉を思い出してちょっと嫌な感じがしました。

それから、今回の2校どちらも、とにかく「学力ありき」の発言が多かったこと。
「合格してから生徒の力を伸ばしていく。」というよりも
「成績の良い生徒を合格させたい。」というように考えているように感じ。
つい、説明会後のアンケートに、
「自分たちなら、入学した生徒に力をつけることが出来るということを
具体的に示して欲しかった。」
というような意味のことを書いて提出しました。(勿論「記名」です。)

どちらの学校も確かに素晴らしいところも感じたのですが。
どちらの学校も「入口」と「出口」を先に決めてしまって、
そのために「その間をどうするか?」という考え方をしているように感じました。
学校の考える「入口」は「成績の良い生徒を入れること」で
「出口」は「少しでも有名な大学に合格させること。」です。
私はそう感じました。

ここ数年この地域の色々な学校に行って共通に感じるのが、
「うちの学校は新しい取り組みをしている。大きく変わりつつある。」と
どの学校もが一生懸命訴えていることです。
「改革」をすることやそれをアピールすることはいいことだと思うのですが、
大抵の場合その方法論はほぼ同じです。
どこも大抵、「改革」の一番の目玉としているのが
「カリキュラムの改正」なのです。
さらに付け加えるとしたらその「改正」の内容は、
「成績別クラス編成」、「選択科目の増加」、「授業時間数の増大」
「夏季や冬期休暇の間の補習授業」などでどこも大して変わりません。
毎年説明会に行っているので、正直「またか」って思います。

ただ、それも無理も無いような気もします。
どの学校も「入口」と「出口」が同じなのですから
その間に敷く「レール」が似通って当然です。
でも、子供たちのために先生方にももっと考えてほしいと感じます。

子供はさまざまですし、将来について色んなことを考えているわけですから
「入口」もそうですが、「出口」をもっと広く考えてあげて欲しいと思うのです。
大学進学以外の選択をする生徒もいるだろうし、もっと先の将来も考えてやって欲しいです。
この二日の話を聞く限りでは、
この二つの学校は何だか「大学に行く為の予備校」みたいに感じました。
もちろんそれだけではないと思うのですが、
他の部分は説明会からは伝わってこないのです。
説明会で説明しないのだから、
他の部分は
「考えていない」のか
「重視していない」のか
どちらかだろうとつい考えてしまいます。

私にも娘がいますが、説明会に参加してみて
「自分の子供は行かせたくないな」って正直感じました。

とはいえ、公立校はもっとひどいのかもしれません。
私の娘が中学生になるのはまだかなり先のことですから、
今は何とも言えないのですが…。

私の娘も私学に通うようになるのでしょうか…?
ちょっと心配になってきました。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-13 03:02 | 未分類

杉原千畝氏について

昨年10月に放送されたTVドラマ
「六千人の命のビザ〜杉原千畝物語〜」を
今日見ました。

杉原千畝氏は私が一番尊敬している人物で
高校生の時、彼の伝記「六千人の命のビザ(杉原氏の奥様が書かれた本です。)」を読んで、「外交官になりたい」と思ったものです。

以前も記事に少しだけ書いたことがありますが、
当然ながら外交官にはなれず、今は塾講師をしているわけですが、
今になって改めてドラマを見ると、高校生の時の感動が蘇ってくるようでした。

アメリカに「SAVATAGE」というロックバンドがいます。
彼らは杉原氏をとても尊敬していて、
彼について「CHANCE」という曲を作っています。
インタビューでも「彼は僕たちのヒーローだ」と語っています。

でも彼は普通の人間で
短距離走の世界記録を作ったり
野球で物凄いHRを打ったり
そんなヒーローではないのです。

私が彼を尊敬するのは
彼がごく普通の人間で
多分気持ちさえあれば誰でも出来る、
でも非常に覚悟と決意の必要なことを決断し、実行したことなのです。
どんな人でもその立場にあれば実行可能で、
でも恐らくみんな決して実行しない(できない)ことを彼は実行したのです。

外交官という立場にある人間が国益に反して
独断で政治的判断をしたことに対する批判は当然あるでしょうが、
だからこそ、彼は数日間悩み続けたのです。
人間の命の重さと国益を守ることの間で悩んで
「国益に反しても、ユダヤ人達の命を救う」という判断をした彼は正しいと思うし、
そんな人物が日本にいたことを日本人として誇りに思います。

先程の「SAVATAGE」もそうですし、
彼に救われてイスラエルで暮らしている多くの人々
さらに彼がビザを書き続けたリトアニアでは、
彼が領事として滞在していた建物を保存しようと活動している方々がいます。
海外では彼は「六千人のユダヤ人を救った日本人」として広く認知されているのに
日本では全く知られていません。
彼は教科書に載っても良いくらいの人物だと思うのですが…。

私も戦後の教育を受けてきた世代ですから
学校教育の中で戦前を否定するような歴史教育を受けてきたように思います。
日本が無謀な戦争をし、侵略行為で多くの国の人々を不幸にしてきたことは事実として認めないといけません。
ですが、それと同時に日本が世界に誇るべき人物が多くいるということを子供たちにもっと伝えるべきだと思うのです。

杉原氏だけでなく、明治時代の「エルトゥールル号」の事件や
現在も活躍されている緒方貞子さんなど、世界に日本が誇るべき人や出来事も多くあることを私はそのほとんど大人になってから知ったのです。

杉原氏の伝記を読んで「外交官になりたい」と思ったのですが、
その前から、私はずっと「海外に行きたい、海外で暮らしたい。」と思っていました。
それは「日本なんてつまらない国だ」と当時思っていたからです。
今この仕事に就いて、今私が教えている子供たちを見ていると
少なからずそういう思いを抱いている子供がいるのではないかと感じます。
それは子供たちのせいではなく、それを教えてこなかった大人の責任だと思います。

私自身が、社会科という科目を扱いながら、成績を上げることばかり気にして
子供たちに「伝えるべきこと」を伝えていない。
そのことに対して、恥ずかしさと自己嫌悪を感じます。

日本という国が出来てから、長い歴史の中でずっと
数え切れないほど多くの人が「日本」を様々な苦心を繰り返して作ってきた。
その上で今の私たちがある。
そのことをこのドラマを見て感じました。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-09 02:15 | 未分類

年金ってホントに大丈夫?

今日の午後、出勤前に昼のワイドショーを見ていたのですが、
年金の特集を見て、本当に大丈夫か?って不安になりました。

社会保険庁がいい加減な役所だというのはよく知っていますが、
今回の特集もひどかった。

⑴ある人が年金の納付状況を調べたら、2年間未納期間があるという
その人は確実に納付したという自信があったので抗議すると
「その期間の台帳がないから確認できない。」という。
だから納付したという領収書をもってこいという。
昭和24年から25年の二年間です。領収なんてあるはずない。
しかも、台帳がないのは「火事で焼けたから」とウソの説明をしているのです。

⑵また他の主婦は、「年金の未納分を納めないと保険証を出さない。」といわれて
未納分を納めたそうです。しかし。そのとき領収書を求めたのに断られ、しかも、その後未納分が
未納のままになっていたことがわかったそうです。抗議したら、領収書がないのだから
払ったと証明できないというのです。結局この方は泣き寝入りになってしまったそうです。

ひどい話です。
「台帳に記録がないから、納付を証明できない」
といわれたら私のように源泉徴収で引き落としになっている人間は
どうやって自分が保険料を納めたことを証明できるのでしょうか?
しかもその台帳の管理がいい加減極まりないのです。

⑴の方は、何と昭和24年から25年の給与明細をもっておられたのです。
それでも、「会社があなたの給与から引いていても、会社が保険料を払っていないかもしれない。」
といわれたそうです。

極端な話をいえば、職員が台帳に火をつけて焼いてしまったら、
「台帳がないから確認できない。」ということで、
焼けた台帳に載っていた人の年金は払わなくて良くなるということになってしまいます。
「そんないい加減な話があるか」と思うのですが、
そんな非常識なことがまかり通る役所だということですよね。
民間企業なら完全に詐欺です。

この役所の職員がみんな悪意をもってそういう仕事をしているとは思いません。
むしろ、いい加減な仕事をしているのにそれが普通だと思いこんで、
一生懸命「いい加減な仕事」に励んでいるのでしょう。
いわゆる「分母対策」などというものをニュースで見るとつくづくそう感じます。
「自分たちは必死で働いている」と抗議をして退職した幹部職員までいるわけですから、
私たちとの考え方のずれは相当なものです。

以前、「住民基本台帳ネットワーク」の法案を作るときに、
個人情報の開示について、公務員の罰則がないことについて
当時の福田官房長官が、
「公務員が悪いことをするわけがないから、罰則がないのだ。」
というような発言をして、物議を醸しましたが、
こういうところが、意識のずれなのですよね。
私の意識からすると、
「公務員だから、何かいい加減なことをやってるんじゃないか?」と思うのですが…。

学生時代に年金が払えなくて、「免除」の手続きをしました。
「免除」ですから、「払わなくていい」のだと思っていたのですが、
いつぞやの「年金未納問題」の時の報道で
「後で払わなくてはいけなかった。」ということを知りました。
「免除」と書類に書いていても実際は「猶予」なのだというのです。
でも、今までにそういう説明を全く受けていません。
多くの政治家が「年金未納」を指摘されて、辞職に追い込まれたりしましたが
「年金未納問題」の時、私のように知らないまんまに未納になっていた人もかなりいるはずです。

最近のニュースでは、かつて与党が約束した「現役時代の年収の50%」の年金給付額も、
このままだと守れないのが確実なようです。

守れないのに約束して、
結論が出せないと先送りして、
どうにもならなくなると責任を国民に押しつけるのが
公務員の常套手段。
これなら「年金なんか払うもんか」と思う人がいるのも当然。

ホントに年金もらえるのかな?
と真剣に不安です。
年金払わずに自分で貯めた方がいいかもしれないと本気で思います。
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# by soul_doctor2005 | 2006-07-05 00:01 | 未分類

巡り合わせ

この数日間で広島地区の中学入試の日程が出そろいました。
広島地区(広島市近郊)では、各学校の申し合わせで、
それぞれの学校の受験日を決めているので
毎年そんなに極端に日程が変わることはありません。
が、今年は結構困ったことになってしまったのです。

男子については例年通りで特に問題はないのですが、
女子の方が問題なのです。
というのも、あまりこういう表現は好きではないのですが
いわゆる「本命」の学校と「すべり止め」の学校の受験日が同じで
両方を受験することが出来なくなっているのです。
一か八か「本命」の学校を受験すると、全部落ちてしまうことになりかねないし、
「本命」の学校を受験しないと、「今まで何のために頑張ってきたのか?」と
子どもたちもがっかりすると思うのです。
私も塾長も、ボーダーラインにいるような子にはどう勧めたらいいかと悩んでいます。

毎年同じなのですが、同じように努力して、同じくらい力のある子どもたちが
受験する学校の選び方だけで、大きく結果が変わってしまうということがあります。
私たちの塾は基本的に「この学校を受験しなさい」というような指導はしない方針です。
もちろん、それぞれの学校への「合格可能性」などの話はしますが、
最終的には子どもたちと保護者の方で受験校を決めていただくようになります。
でも今回のような状態では「やはり少しくらいは助言した方がいいのだろうか?」と悩みます。

こう考えると、
どんなに頑張っていてもその成果が「運」に左右されることもあるのだな
と改めて感じます。

実力がないと良い結果を出すことは出来ないけれど、
実力があっても良い結果を出せない場合もある。
むしろ、こちらの方が多いような気もします。

自分の一生の転機が自分以外の要因で決まってしまうのは
なんだか納得行かない気もしますが、
今までの自分の人生を考えてみるとそれが普通だし当たり前のように思えてきました。

今思えば、私の人生の転機というのはほぼ例外なく他人から告げられてきたように思います。
同じように、私が他人に人生の転機を告げたこともあります。
そんな風に、人生の転機というのはお互いにまわりの人間に告げあうものなのかなと感じます。

今回の入試の日程は先日文書で保護者の方に配布しました。
日程を見て、悩まれる方もおられると思います。
子供の一生の転機ですから当然です。

ただ、自分の力でどうにもならないことはどうにもならないのです。
どう頑張っても試験の日程を変えることはできません。
だからとにかく、しっかり考えて納得できる結論を出すしかない。
そう、保護者の方にはお話ししたいと思います。

私自身の経験からいっても、
大学受験では第一志望の大学には合格できませんでしたが、
第二志望の大学に行って今は本当に良かったと思っています。

「人間万事塞翁が馬」といいます。
どんなことが自分にとって本当にいいことなのかは
後にならないとわからないわけですから…。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-26 00:48 | 塾の仕事を通じて

奈良の放火殺人事件について

奈良の放火殺人事件について

中学受験の指導をする私にとっては人ごととは思えない事件です。
受験が近くなるとやはりつい子どもたちに厳しい言葉を発してしまいます。
保護者の方ももちろんですが、私たちも子どもたちを指導する際に
「もっとを力をつけて欲しい。」そんな思いでつい指導に力が入ってしまう。
預かっている子どもたちを大切に思うからこそ、
そう感じるし、そう指導するのですが、
それが子どもたちに何らかの重圧を与えていることは否定できません。
子供によっては、私が意図してそうしている場合もあります。

子供の気持ちを考えて指導しているつもりですが、
今回の事件を見て、
子供の気持ちを考えて指導しているといっても、
あくまで「大人の基準」でモノを見ている場合があるのではないか。
と感じます。

子供が重圧に耐えきれないとき、
大人はその重圧から解放してやる(一時的であっても)必要がありますが、
私たち塾の講師はそれが出来にくい立場にあります。
重圧の内容が「勉強」である場合「勉強するな」とは言えないのです。
私たちは「勉強させる」のが仕事ですから当然といえば当然ですが…。

塾の先生方によって意識は違うのかもしれないですが、
私は生徒に雇われているのではなく、生徒の保護者に雇われていると思っています。
ですから保護者の意向を無視するわけにはいけないと思っています。

一人の子供を学校の先生と親(さらに塾の講師)とで見ていくわけですから、
いろいろな大人にいろいろなことを言われる子供は辛いのかもしれません。
確かに今の子供は大変だなと感じます。
ただ、私や私の親の世代に比べて極端に厳しい環境に置かれているとは思えないのです。

私はいわゆる「団塊ジュニア」と呼ばれる世代で、
受験でも就職でも同年齢の人間の人口が多かったので
(私の世代がピークで後は減り続けています。)
それなりに厳しい競争にもまれてきたと思います。
、今の子どもたちは、当時の私の年代の半分くらいの人口しかいません。
単純に考えると、受験でも就職でも競争率が半分のはずなのです。

塾の仕事を始めてから知ったのですが、
今の高校生は、私たちが入るのに四苦八苦していた大学を
当時の私たちよりずっと低い成績で合格できるのです。
正直うらやましいと感じます。
だから今の子供全てが学習面で特に厳しい競争にさらされているとは思えないのです。

私たちの世代や私の親の世代は厳しい受験競争の時代でしたが
だからといって、今回のような事件が頻発していたことはなかったと思います。

ですから今回のような事件が続くのには社会的な面の影響が多いと思うのです。
「ゆとり教育」だけでなく、今の日本は「勉強しすぎ」「働き過ぎ」からの反動で
生活にゆとりをもとうとするような傾向が見られます。
その一方で、社会人になれば競争社会にもまれるという現状もあり、
キャリア志向が強く、寝る間も惜しんで働いたり、技能を身につけようとしている人もいます。
最近よく「勝ち組」「負け組」などという言葉が使われますが、
こんな風に社会の風潮が二極化してきていることにも、今回の事件の背景があるように思います。

「他人の芝生は青く見える」といいますが、
みんなが同じような状態にあった私たちの世代は「他人の芝生も同じに見えた」ので
そこまで不満はたまらなかった。
でも、今の子供は今の自分と違う生き方をしている人を知っている。そうすると、自分だけが特別に厳しい環境に置かれているように感じるのではないでしょうか?

ただ、世の中に「勝ち組」と「負け組」があるなら、「勝ち組」に入れたいというのか親の正直な心情だと思います。そういう思いから子供を非常に厳しい環境に追い込む親もいるようにも感じます。報道を見た限りでは、事件を起こした少年の両親はそういう傾向があったようにも感じられます。もしそうなら、少年も気の毒だったと感じます。

正常な判断が出来ないまでに追いつめられていたのでしょうか?
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-24 23:35 | ニュースについて

山口母子殺害事件の判決について

被害者の夫の本村洋さんは、判決の後で「最高裁で死刑判決が出て欲しかった」とおっしゃったそうですが、そのニュースを見る前に私も同じことを感じました。

この事件が他の事件以上に私の印象に残るのは、隣県の事件であることと、本村さんが私と同年代の人である(私は本村さんより2歳年上です。)ことなどからです。
 本村さんはこの数年、殺された妻子の無念をはらすことのためだけに生きてこられたように思われます。私にも妻子がいますが、本村さんの無念は察するに余りあります。
その無念を察しての最高裁の判断だとは思うのですが、これまで数年間を費やした本村さんにまだ数年間費やせというのでしょうか?
最高裁で判決が出て、さらに弁護側が上告ということになればまた数年の期間を要することは明白です。
本村さんが事件の為に失った時間を思うと日本の司法制度の問題点の多さに腹立たしさを感じます。

この事件だけでなく日本の裁判は時間がかかり過ぎる。
行政訴訟などでは、決着がついた時には原告の多くの人たちが老いて亡くなられている。それでは何の為の裁判なのかわからない。
今ちょうどその為の改革を行っているはずです。
それなのに司法の頂点に立つ最高裁がこのような判断を下したことが残念でなりません。

自論である「死刑制度廃止」をこの裁判に持ち込んで
「政争の具」にしようとしている安田弁護士の姿勢にも疑問を感じます。

こんな人ばかりがいるような法曹界なら、
「裁判員制度」で自分が選ばれて裁判に参加することも仕方がないのだろうか
とも感じます。
どうも司法の世界にいる人たちの考えが自分たちとはかけ離れているように感じるのです。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-21 00:02 | ニュースについて

「怒る」と「叱る」

「怒る」と「叱る」というと
よく、「怒る」のは駄目。「叱る」必要があると言われますが、
何となく、そうとも限らないととも感じます。

正直言って私は、「怒る」のが苦手です。
「叱る」ことはできるつもりですが、
今の子供は(昔もかもしれませんが…)
ただ「叱る」だけじゃ効果がない時もあります。
理を含めて説明しても、全く理解してくれない、そういう子もいます。

自分の子供でもそうなのですが、
子供だからこそ、理屈が理解できない、
あるいはわかっていても自分の気持ちが抑えられない。
そういうときがあると思います。
やり方としては正しくないのかもしれないのですが
そういう時は「怒り」を発することで
子供に「これはいけないことなのだ」と理解させないといけないのだと思います。

そう思うのですが、心の中で怒りを感じていても、
「ここで怒るのは単なる八つ当たりじゃないか」などと自問自答して、
結局我慢してしまうことが多いのです。
私のような小心者には、「怒る」タイミングが難しい。

「怒る」と自分もその後結構へこんでしまいますし…。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-19 12:32 | 塾の仕事を通じて

市場原理

最近塾の仕事で手いっぱいで、
帰宅するとパソコンを触りたくない気分になり、
しばし更新が滞っておりました。
ちょくちょくこういう時がありますが、
更新自体を辞めるつもりは毛頭ありません。
どうか、気長にみていただければ幸いです。

ここしばらく夏期講習の準備をあれこれとしておりました。
私の勤務する塾は、小学3年生からやっているのですが、
3年生はこれまで夏期講習をしていませんでした。夏休みはお休みなのです。
夏休みは朝からずっと授業なので、手一杯で時間がとれないというのが理由なのですが、「でも今年からは何とかやりたい」ということで
段取りを考えておりました。

授業をするとなると当然教材が必要。
そこで、普段からつきあいのある教材屋さんに教材のサンプルをいただいて
内容などを検討していました。
ちょっとこれは良いなというテキストがあったので
教材屋さんに値段を問い合わせてみるとこれが非常に高い。

同じテキストの小学4年版や5年生版が800円なのに、3年生版は1200円もするのです。ページ数も4年生版や5年生版の方が4割くらい多いのですが…。
「やっぱり数が出ていないからですか?」と聞いたら
「おっしゃる通りです。」との返事。

確かに4年生から授業が始まるという塾も多いですから無理もないのかもしれません。
「売れないので3年生の教材は一切作りません。」と言われるよりましかもしれません。ただ、学年が下がるほど授業料も低くなりますから、正直痛いですね。
何だか資本主義社会の末端を見たようで、ちょっと寂しい気がしました。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-16 00:01 | 塾の仕事を通じて

「勝ち」をめざすこと

W杯が開幕しました。
これからしばらく寝不足の日々が続きます。
大変ですが、それだけの素晴らしい試合があること期待して
眠気をこらえてしっかり観戦します。

私は、W杯の64試合何とか全て見るつもりでいます。
もちろん全てがいい試合というわけではないでしょうが、
一つ素晴らしい試合を見てしまうと、全て見ずにはおれなくなるのです。

W杯の素晴らしいところは、やはり世界の一流選手が勝つためになりふり構わず闘うところにあると思います。昨晩のイングランド対パラグアイ戦、スター軍団イングランドに立ち向かったパラグアイの選手達の闘志あふれる戦いぶりは素晴らしかったです。明らかにパラグアイは引き分け狙いでしたが、それもあくまで予選を勝ち上がるため。「相手がイングランドだから負けても仕方ない」とは全く考えていなかったはずです。

予選リーグはたったの3試合。トーナメントは負ければ終わり。そういう後のない戦いだからこそ見ることの出来る戦い。だからこそ世界の多くの人が熱狂するのだということを私自身が感じています。

プロのサッカー選手と塾の子どもたちを比べるのも何ですが、
子どもたちにも「勝ちを目指す」ということを考えて欲しいと思います。
もちろん勝つことが全てだとは思いません。
勝つため(勉強の場合はいい点を取ること)だけを考えさせるような指導はしていませんし、
するべきではないと思います。
ただ、遊ぶのでも勉強でも習い事でも、「うまくなろう」「負けたくない」という思いで取り組んでいる方が力はつきますよね。そういう子の方が、生活も充実しているように感じます、
全ての子ではないですが、「親にしろといわれたから」「別に勉強なんか出来なくてもいい。」と思っている子がいるんですよね。そういう子はたいてい他のことも中途半端に取り組んでいる感じがします。

この一ヶ月の間にW杯を見る子供は、私の指導する子どもたちの中にもたくさんいます。
試合の見る中でただ「勝った、負けた」だけでなく、「一流の選手でも勝つために必死なのだ」ということを感じ取って欲しいです。でももしかしたら、「一流だから」必死で勝ちを目指すのだといえるのかもしれませんね。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-11 23:11 | ニュースについて

「自分に問題がある」と思うこと。

先日の記事で、
「出来ない子は出来ないことを自分以外の理由があることにする」
というようなことを書きました。

いつも思うことなのですが、
自分が何か出来ないことがあったとして、
それが自分にはどうしようもないことが原因だったら、
もうどうしようもないですよね。
私はそう思うのが嫌なんです。

私の仕事の場合、
例えば思うように授業が行かないとして
それを「生徒が集中してないからだ」とか
「生徒の力が低いからだ」と考えたら、
もうどうしようもないのです。

仮に「何を教えても絶対に身に付かない子」がいたとして、
そういう子だったら「子供が原因だ」といってもいいのかもしれませんが、
これまで教えてきて、そういう子には会ったことがありません。
以前も書きましたが、大半の子は「頑張ってない」から出来ないのだと思うのです。
「頑張っていない子供」にも原因はあるかもしれませんが、
「頑張らせていない自分」にも問題があるのです。

私は、自分が「子供が駄目だからできない」と考えてしまうのが怖いのです。
そう考えたら、
「いま自分が教えている子どもたちはどうやっても力が伸びない。」
ということになるからです。
何をやっても不手くいかない、成績も伸びない。
そんな状態で自分がこの仕事を続けていくとしたら、
そのことがとても怖いのです。

「子供のため」というのもあるのですが、
同じくらい「自分のため」に充実した仕事がしたいと思うのです。
そのためには、自分の指導が子どもたちに効果があると思いたいし、
そのために努力をしていきたい。
どんな仕事でも同じだと思うのですが、
「自分がやっている仕事に意味がない。」と考えるのは
やはりつらいと思うのです。

「子供の力が伸びないのは自分が原因」
そう考える方が前向きだと思うのです。
自分が頑張ればどうにかなるわけですから。
自分が弱い人間だからだと思うのですが、
「他力本願」な状態になるのが怖いのです。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-10 22:13 | 塾の仕事を通じて

「祈る」ということ

度々書いていますが私は広島の人間です。
広島で生まれ育った子供は、必ず(最近は違うようですが…)学校で
「平和教育」を徹底して習います。

広島市の花は「キョウチクトウ」
「百年間は草木も生えない」と言われた原爆後の広島に
最初に咲いたのが「キョウチクトウ」の花、
それが市の花の由来だと習ったのを今でもはっきり覚えています。

原爆が落とされた8月6日は、毎年学校の登校日でした。
「平和公園」で行われる「平和記念式典」にあわせて学校で黙祷します。
そして、みんなで「なつやすみ帳」の原爆ページをみんなで勉強するのです。
今は、かなり変わってしまったようですが、私の子供の頃はそうでした。

そういう広島ですから、8月6日が近づく今の時期になると
だんだんとテレビや新聞、ラジオなどでも
「祈る」とか「祈り」という言葉が
頻繁に使われるようになってきます。
「平和の祈り」「平和の誓い」そんな言葉が聞かれるようになると
「また、原爆の日がくるんだな」と感じるのです。

ふと、ふり返って考えてみると、
自分は最近「祈る」ということをしていないなと感じます。
それに今思うと、数年前までは「祈る」ということがどういうことなのか
実感としてはわかっていなかったとも思います。

世界のどこかで核実験が行われると
広島では被爆者団体の皆さんが
抗議の座り込みをします。
広島市長はその都度抗議の文書を送ります。
私には正直言って最近までそれらの行動が
「無駄」にしか思えなかったのです。
何度抗議をしても無視されるのがわかっている。
なのになぜ意味がない行動を繰り返すのか?
そんな思っていたのです。

ですが今はそういう行動をしておられた方々の気持ちが
わかるような気がします。
自分なりにですが、「祈る」という言葉や行動の意味が
わかるようになってきたからです。

2001年の元旦に私の父がガンで亡くなりました。
私はそのころ結婚が決まっていて、
父が入院したことでそれが延期になっていました。
「父が元気に回復し、結婚式に出て欲しい。」
そう思って延期をしてきたのですがそれはかないませんでした。

その後結婚し子供もできて、
仕事では校舎責任者として管理職になりました。
家庭でも仕事でも、だんだんと生前の父の立場に近づくにつれて、
「こういうとき父もきっとこう思っていたんだろう。」とか
逆に「こういうとき父はどんなことを考えたのだろう。」と
あれこれ考えることが多くなりました。
「父と色々話したい。」そう思うことが多くなってきました。
でもそれはもちろんかないません。
そんなことがあってから、自分は「祈る」という言葉や行動を
理解できるようになってきたように思います。

人間に出来ることには限界がある。
でも、時にはその限界を越えることを願ったり望んだりしてしまう。
それを叶えるのは無理とわかっていても、
気持ちが抑えきれなくて
「祈る」という行動につながるのだろう。
いまはそんな風に理解しています。

でも、今の世の中って
「祈る」必要がどんどん少なくなっている社会だなとも感じます。
「願って叶うこと」だけを追い求めて、「無理なこと」はあっさり諦める。
そんないい意味でも悪い意味でも「あっさり」とした世の中になってしまっているように感じます。
何となく淋しいですね。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-08 23:21 | ニュースについて

望むこと、望まれること

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今日は音楽の話題です。
多分、ほとんどの方がご存じないと思うのですが
ドイツ人のトミー・ハートというヴォーカリストの話です。

彼は、日本でもかなり人気のあった「Fair Warning」というグループのヴォーカルでしたが、数年前にバンドを脱退、自ら「Souldoctor」というバンドを結成し、現在はFair Warningにも復帰して、二つのバンドを掛け持ちしている人物です。

1992年にFair Warningとしてのアルバムを聞いたときから、私は彼らのファンでした。特にヴォーカルのトミー・ハートのファンで、彼の何とも言えないハスキーで感情的な声、音楽に賭ける真摯な姿勢がたまらなく好きなのです。
彼らはこれまでに4枚の素晴らしいアルバムを出していますが、セールス的には成功せず、2000年トミー・ハートの脱退で休止状態となっていました。今回トミー・ハートが復帰することで数年ぶりにバンド活動が再開。今月にはシングルを、来月にはアルバムをリリースします。

さて、本題ですが
2000年に彼がFair Warningを脱退したときには、私だけでなくかなり多くのロックファンが驚いたものです。「脱退した」という以上のことがさっぱりわからず、あまり多くもない情報を探し回って国内外の色々なサイトで情報を探しました。
あとでわかったのですが、「もっとやりたいことがあった」と彼は発言しています。彼自身はもっと自分のルーツであったロックンロールをやりたいと考えていたようです。Fair Warningは日本では人気があったので、そのまま続けていれば人気も収入もそれなり(大金とはいかないと思いますが…)に手に入ったはずです。それでも「自分の道を貫いた」わけで、「残念だけと仕方がないな」と思ったのを覚えています。

ただ、現在彼が率いているSouldoctorは私を含めてFair Warningのファンには評判が良くないのが事実です。それはSouldoctorの音楽性がFair Warningとはかなり違うからで、Fair Warningで彼を好きになったファンの多くががっかりしたと思います。

それでも彼はFair Warning再開の際のコメントで「Souldoctorは絶対にやめない」と宣言しています。そして、Fair Warningに復帰した理由を「ファンのため」と発言しています。つまり彼は今「自分のために」Souldoctorで活動し、「ファンのために」Fair Warningで活動しているわけです。そしてそんな今の自分の状況を「とても自分は幸せだ。」と語っています。

そんな彼の記事を読んで、彼が「幸せだ」と語っているのはホントなんだろうなと感じます。彼のようなミュージシャンでなくても、「自分が皆から望まれていること」と「自分がやりたいこと」を両立するのはとても難しいものです。
「こんな人になって欲しい」とか「こんなことをやって欲しい。」と周りから思われたり期待されたりすることは、時にかなり重圧になります。反発もあると思います。
だからかえって「自分はこういうことをやりたい」という気持ちが固まるのだろうと思うのです。でも一方で「周りからの期待」という枠から外れてみると、「周りから期待されてその期待に応えること」にも喜びや充実感が伴うことであることもわかるのです。

ファンの勝手な想像ですが、この数年間で彼もそんなことを感じたのではないでしょうか?それで出した結論が「Fair Warningへの復帰」「2つのバンドの掛け持ち」ということだったのではないかと思うのです。

もうすぐ6月21日には新曲が手元に届きます。
そんな彼の数年間を想像しながら、新曲をじっくり楽しみたいと待ちこがれています。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-06 23:57 | その他

まず、やってみる

以前も「学習の効果を不げるには、本人のやる気が必要」
という主旨の記事を書いたことがあります。
それに関連することなのですが、
最近、授業をしていて、
やる気のない子どもたちがよくいう言葉があることに気がつきました。
それは、「もし、出来なかったらどうする?」と言う言葉です。
他にも「もし駄目なら〜」とか「多分できないと思うけど…。」とか
口にする発言がネガティブなのです。

たまに問題演習を行うときに
「出来たら一問ずつ持ってこさせる」という形で
指導をするときがあります。
そうすると、「出来てないと思うけど…」
「多分違ってるけど…」とかいって持ってくる子がいます。
断言は出来ませんがたいていそういう子はあまりいい成績でなかったりします。

考えてみれば当然かもしれません。
最初から「駄目かも」などと逃げ道を用意してから
問題をやっているわけですから。
「絶対に解いてやる!!」
という気持ちで取り組んでいる子に勝てないのは当然のように思います。

テストのときにも
私が「わからなくても何とかして答を書こう。」
といっても全然解答を書かない子もいます。
本当に見当もつかない子は仕方がないとして、
一度解答した答を提出の際に消してしまう子がいるのです。
後で聞いたら「自信がなかったから」といいます。
プライドが高いのか、
「きれいな答」を書かないといけないという意識があるのかもしれません。


そういう子には私はこういうことにしています。
ありきたりですが「まずやってみよう」ということです。
「出来ない子」の中の結構な割合の子は
「やらずに出来ないと思っている」のです。
そういう子がとても多い。
じっくりやってみたら大したことないのに
ちょっと考えて答がでないと
「わからない」「できない」と思いこんでしまう。
本当にありきたりですが
「まずやってみる」が出来ない子はとても多いと感じます。


日常生活や会社などでも
こういう人は結構いるように思います。
会議などをしていても
「反対のための反対」に終始している人です。
今までにない新しい提案がでると、
それについて「駄目な理由」ばかり思いつく人です。
それで「じゃあ、どうしたらいい?」と聞くと
答えられないのです。
もちろん、今までやっていなかったことなのですから、
それが出来なかった理由が何かあるはずです。
でも、会議で考えないといけないのは
「その提案が有益がどうか」ということと
有益であれば
「それを実施する際の問題点と解決方法。」
ではないでしょうか?
反対するだけでは前に進めない。
前に進むためには、新しいことをしなくてはならない。
そう思うのです。

子どもたちの中にも、問題が出来ないと
「学校が忙しいから」「習い事があったから」などと
出来ない理由を並べますが
「できるようになるにはどうしたらいい?」と聞くようにしています。
自分の問題点を解決するための方法を自分で考えて欲しいのです。
その方が何事にも前向きに取り組んでいけると思います。

これは自分にも言い聞かせていることです。
前向きじゃない時って自分で自分に不運を集めてくるようなところがありますよね。
自分に自信が無いと逆に周りを疑ってみたり…。
自分に原因があり、それを克服していこうとするのが前向きな姿だと思うのです。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-05 19:31 | 塾の仕事を通じて

最大公約数

個別指導の場合はよく分かりませんが、
クラス指導をしていて非常に悩むのが
指導する内容や難易度です。

私たちの塾ではほぼ毎年同じテキストを使って指導をしていますが、
だからといって毎年全く同じ授業は出来ないのです。
それは勿論、授業を受ける生徒が毎年変わるからですが、
これが悩みの種。
年によってクラス全体での授業内容の理解度も違いますし、
生徒個々の授業の理解度も違う。
そうするとどこに焦点を合わせて指導するかが難しいのです。

私の場合は、たいていの場合
「クラスで一番理解力のある子と
真ん中くらいの生徒の中間位の難易度にする」
ことを意識して教えます。
「一番理解力のある子と一番理解力のない子の間の難易度」にはしません。
それは、「理解力がない」(つまり「分かってない」)子が必ずしも全力を尽くして取り組んで、それでも分かってないとは考えていないからです。
「分かってない」子が今以上に本気取り組む為には、「怠けていてはついていけない」という位のプレッシャーがあった方が良いと思いますし、その方がその子の為になると思うのです。

こんな風に
自分の中ではそれなりに基準を考えているのですが
「その通りにやれば絶対上手く行く」
というものでは無いのが正直なところです。
むしろ「上手く行った」と感じることの方が少ない
と言うのが実情かもしれません。
毎年「上手く行かないなあ」とあれこれ試行錯誤し、
その時に最善だと思うことをやっている、そんな毎日です。
だから、毎年同じ単元を教えても同じ授業にはならないわけです。

一人ひとりの生徒のことを個別に考えていくと
クラス授業という指導法に限界を感じるときもあります。
でも、だからといって
「一人の子供に24時間つきっきりで何もかも指導する」
というわけにも行きません。
一人で複数の子供を教えるわけですから
全ての子供にぴったりマッチするというわけにも行かないのです。

生徒の力を目一杯伸ばしてやりたいとは思いますが、
私自身にできることには限度がある。
できることとやりたいこと、この最大公約数を追及していくのが
私たちの仕事の一つかもしれません。

算数の最大公約数のようにはっきりした答えが見えにくいのが
もどかしい限りですが…。
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# by soul_doctor2005 | 2006-06-02 16:15 | 塾の仕事を通じて

デタラメ本

毎年年度初めや講習会前には
教材会社からたくさんのテキストの見本が届きます。
試しにどんなものが見てみるのですが、
実際に採用したテキスト以外のほとんどの本は
実際に解いてみるところまですることはありません。
大抵の場合、テキストの選定の際にチェックするのは
テキストの構成や難易度、単元の順番などで
まさかテキストに記載してある内容に誤りがあるとは普通考えないからです。

ところが、私たちの塾の塾長(算・理担当)が
ある理科のテキストを解いてみたらデタラメだらけだったのです。
誤字脱字は勿論、解答が解答集に載っていなかったり、
解答が違っていたり、設問の内容では解答が複数になってしまったり、
入試問題で引用した問題の引用がちがっていたり、ひどいものです。
中には明らかに間違っている答に全く意味不明の解説がついているものも
あります。
理科の専門ではない私が見ても明らかにおかしい問題が連発です。
教材の代理店に連絡して見てもらったのですが、
結局持ち帰って対応してもらうことになりました。

ついつい本に載っていると本当のことだと信じてしまいますが、
こういうこともあるわけですよね。
ただ、それでも、子供たちからすると「本に載っているから」と
信じてしまうのです。
まだ経験が少なかった頃は自分の力を信じられなかったので、
解答が自分の考えと違っていると「自分が違っているのかな」と
思っていました。
自分の答えの方が明らかに正しいと思う問題でも
テキストの答えと違うと「先生が嘘を教えた」といわれてしまいます。

国語の場合には、明らかに答が違うという場合はほとんどありません。
ただ、解答をみて「なぜ、この答えになるといえるのだろう。」いうときもあります。
そういう問題に限って解答集に解説が載ってなかったりします。

テレビとか新聞とか、書籍に載っているとつい本当だと信じてしまいますよね。
でも、必ずしもそうではないということがあるんですよね。
鵜呑みにしてはいけないのだということを改めて感じました。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-29 12:20 | 塾の仕事を通じて

教員免許の更新制について

私は元々教員志望でした。
大学で教職の勉強をしましたし、
中学と高校の教員免許を持っています。

結局は教員になりませんでしたし、
これからも教員になろうとは思っていません。
元々塾の仕事を始めたのは、
教員採用試験に合格するまでの「腰掛け」のつもりだったのですが、
今ではこっちの方が自分の性に合っているという気がします。

まだ決まったわけではありませんが、
教員の免許が「更新制」になるようです。
そのニュースを見たときに最初に感じたのは
「ああ、そうか。じゃあ自分の免許も失効しちゃうんだな。」
という感想でした。世の中全体からするとどうでもいいような感想ですが…。

それなりに一生懸命勉強したので
私個人の免許が失効してしまうのは正直寂しいのですが
更新制については基本的に賛成です。
ただ無条件には賛成できません。

というのも、無条件で更新できたら更新制の意味がないですから
当然期間(10年になるようですが)がくれば
更新のために適性をチェックするはずです。
その時、その適性検査がどのような内容になるかによって
免許の更新制の意味や目的がかなり変わってくるように思えるからです。

もともと免許の更新が必要とされるのは
自動車免許などでもそうであるように
ある程度の期間が過ぎると
免許発行時の技量を大きく下回って
免許を保持するのにふさわしくない人物が
免許を保持する危険があるからだと思います。

今回の教員免許の場合も
更新制の是非が叫ばれ始めたのは
著しく適性を欠く教員が多数存在することがわかってきたからだと言えます。
「授業が下手」とか「指導している教科の問題が満足に解けない。」とか
「問題行動がある」とか
そういう教員を淘汰するということであれば
更新制は必要だと思います。
(どういう方法で問題教員を見つけるかという問題はありますが)

ただ、今回のニュースではそれに加えて
「時代に合わせて、教員も新しい技能を身につけるべきだ。」
という主旨の内容も更新制を行う理由として挙げられていました。

確かにそうかもしれませんが
「新しい技能を身につけること」を免許更新の条件にするのはどうかと思います。
教員も時代に合わせてレベルアップしていかないといけないのはそうなんですが、
学校の先生方の現状を考えると、
「今の教務をしっかりこなしていくので精一杯」という先生方はかなり多いはずです。
学校行政も「縦割り社会」ですから、何かにつけて「会議」だの「報告書」だのと
事務仕事に忙殺される先生方は多いのです。

学校週5日制になったとき、世間で「学力低下」が懸念されたということで
その際も文部科学省や教育委員会から、「指導案の作成」や「授業の成果の報告」、「学力低下を防ぐ施策の報告」などを求められ、その作成で夜も寝られないということもあったそうです。

また現行の学習指導要領で始まった「総合学習」。内容が各校の裁量に任せられている分、準備や手配が大変で、「土日はほぼ総合学習の準備、休む暇もない。」という先生もおられるようです。ただでさえクラブ活動などを担当している先生は休日返上なのです。

大学時代の友人の中に教員になった人もいますが、これらのせいで
「満足に生徒と話すことも出来ない」そうです。
更新制をあまり厳格に採用することで、
これ以上の負担をかけることは結局子ども達のためにならないと思います。

話は変わりますが、私は子どもの頃から約20年全く同じ床屋に通っています。
そこではよく教育についての話もするのですが、
あるとき、そこのおばちゃんに
「学校の先生と、塾の先生はどっちが大変?」と聞かれました。
「断言できるけど、間違いなく学校の方が大変。」
私はそう答えました。

周りから「聖職」だといわれて、日常でも周りに気を遣い、
厳しい条件で働いておられる上に、最近は世間の風当たりも強い。
子どもが問題を起こすのは必ずしも学校だけの責任じゃない。
それでも何かあると「対応に問題があったんじゃないか?」といわれます。

先日のマンションから女の子が転落した事件でも
学校の会見で
「いじめはあったのか?」とか
「学校で変わった様子があったんじゃないか?」とか
かなり記者に厳しい質問を浴びせられていました。

先生方も人間ですから
仕事にやりがいや誇りを持てるような気持ちになりたいはずです。
どうも最近締め付けるばかりで、
真面目に働いている世の多くの先生方が気の毒に感じます。
そういえば、学校の先生の給料も3〜5%くらい減らされるそうです。
更新制で「いつ首になるかわからない」、「給料も減る」じゃ
やる気もでませんよね。

更新制は必要ですが、
「問題教員を排除する」という程度にとどめた方がいいのではと思います。
真面目で一生懸命な先生方がやる気を無くしてしまったら、
そういう先生に指導される子ども達がかわいそうです。

「更新にはパソコンの技能が必要。」とかになって、
「先生が子供そっちのけで、パソコンの勉強」
なんてことになったら本末転倒です。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-27 01:38 | ニュースについて

小学校で英語

どうも全ての小学校で近いうちに英語の授業が始まるようです。
いろいろそれに関連するニュースや記事を見ましたが、
私にはどうも小学校で英語教育をすることの意味がよくわかりません。

正直に言うと中学校や高校で英語の授業があることの意味もよくわからないのです。
私は結局大学も入れて8年間(中1から大学2年まで)英語を習いましたが、
全くモノになりませんでした。私の周りには学校教育で英語が使えるようになったという人はいないので、「私が特別落ちこぼれだった」というわけでもないようです。

「そんなこといったら、古文とか、代数幾何とか、地学とか物理とか美術とか、
全く大人になってから役に立たない科目があるじゃないか。」という方は当然おられると思います。私も同感です。

ただ思うのは英語というのは「使うために習う」のであって、他の科目のように
「知識・教養のために身につける」科目とは性質が違うと思うのです。
要するに英語は他の科目と違って「使えるようにならないと意味がない。」と言えると思うのです。
ところが、実際中学・高校で英語を習っても全く使えるようにならない。
こっちが問題だと思うのです。
それを今回、小学校に英語を導入することで解決しようとしているように見えます。
これははっきり言って意味が無いと思う。
仮に小学英語が上手くいっても、どうせ中学・高校で駄目になってしまうわけですから、意味が無いですよね。
逆に本気で身につけようして勉強すれば、中学・高校の6年という期間は英語をマスターするには十分な時間だと思うのです。小学校で英語を導入するより、まず中学高校での英語教育を見直すべきでしょう。

今まで塾で教えてきた生徒のかなりの割合の生徒が
塾とは別に英会話の学校に通ったり、
通信教育などの方法で英語を習っていました。
が、その中で本当に英語が十分に使えるようになった人は
一人しかいませんでした。

その子は父親の仕事の都合で、2年後にカナダに行くことが決まっていたのです。
そのため英語が使えることがどうしても生活上必要でした。
ですから、家族で一生懸命勉強したそうです。
カナダに行くときには日常会話は全く困らないほどに力になっていました。
それから3年後にカナダから戻ってきたときにはさらに英語が上達して
中学3年生でTOEICで890点を取りました。

それくらいの条件が整わないと今の日本で英語の力を付けるのが難しいということです。彼女は特殊な例ですが、他の子は満足に自己紹介も出来ないのです。

今はインターネット社会ですから、私もネットを通じて海外のサイトを見ることがあります。英語のサイトも見ますが、英検で準2級程度(大人になってから取りました。)の英語力でもそれなりに内容はわかりますし、翻訳ソフトもある。
やったことはありませんが、多分やろうと思ったら英語圏の人とチャットやメール交換も出来ないことじゃないと思います。

今の現役世代のほぼ全員が英語を学校で習っていることを考えれば、日本で英語を十分に話せる人の割合は少ないのかもしれません。
でも、絶対数で見れば今の日本には十分すぎるほど流暢な英語を話す人がいると思うのです。それをこれ以上を増やしてどうするという思いもあります。
仮に小学校から高校までの、英語教育が上手くいっても、日本に「英語が話せるけど使い道がない。」という人を大量に作り出すだけのように思うのです。

ちょっと乱暴な言い分ですが、今日本に来ている外国人が多様化しているのだから
学校でも、韓国語とか中国語、アラビア語、スペイン語など様々な言語が学べるようになったらいいと思います。もちろん指導者の問題がありますから、すぐにできることではないし、ほとんどの人は賛成してくれないような気もするのですが…。

どうも一つの言語を全国で画一的に教えるというのが、
個性を重視する今の教育の流れに逆行しているように思えるのです。
もちろん日本語は別ですが…。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-25 00:43 | ニュースについて

アウェイ

昨日、広島県出身のプロボクサー、
稲田千賢選手がアメリカ合衆国で
世界戦を戦いました。

残念ながら敗れてしまったのですが
両目を切り、血だらけになりながらも
懸命に戦った姿は心に残るものでした。
まだ28歳。是非再起してもう一度世界に挑んで欲しい。
そう願っています。

私はこのブログの他にスポーツ専門のブログもやっているので
こういうことは本来そちらで書けばいいんですが、
今日はその試合で感じたことを書いていきます。

稲田選手はもともとタイのシモリンコン選手と対戦する予定でした。
稲田選手は日本人。シモリンコン選手はタイ人ですから、
アメリカでの試合は中立国での戦いとなるわけです。
ところが、シモリンコン選手が肝炎にかかり、試合をキャンセル。
急遽対戦相手が、メキシコのサンタクルス選手に変更になったのです。
サンタクルス選手はメキシコ人とはいえ、
ほとんどアメリカを主戦場に戦う選手。
中立国での戦いのはずが、突然敵地での戦いになったのです。
過去6試合海外で戦いその全てで勝ってきている稲田選手だけに
本人は「気にしていない。」といっていましたが
その影響はかなりあったと思います。

試合開始前、稲田選手の名前がコールされると
会場からものすごいブーイング。
会場に入るときからかなり気負った感じが見受けられたのですが
やはりかなりのプレッシャーだったと思います。

実力的には大差ないといわれていた相手に
ここまで一方的に負けてしまったのは
やはり敵地であったことへの気負いのように思います。

ボクシングに限らず。敵地で力を出すのは本当に難しい。
きちんと準備をして実力をつけても、出し切れないと無いのと同じ。
色々なことに当てはまると思います。

私の仕事でいえば、子ども達にどんどん実力を付けさせても
いざ受験となったときに、緊張で力が出せなかったとか
直前で体調を崩したとかそういう子もいます。
ここ一番で実力を出すためには精神力も必要ですね。
気持ちを鍛えるというのはとても難しいのですが…。

そもそも私たちは、
「敵地」に乗り込んでいくこと自体がとても少なくなっている。
「敵地」を「逆境」と言い換えてもいいんですが
何となく自分の安全地帯にこもって、
チマチマとその安全地帯を広げるようなことばかり
やっているような感じがするのです。
私たちじゃなくて、私自身のことなんですが、
そのことを反省しないといけないと思います。

そう考えると改めて、敵地に乗り込んで戦いを挑んだ
稲田選手はすごいと思う。
私のような軟弱人間は彼をみて反省です。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-22 11:45 | ニュースについて

ついに出た!MacBook!!

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いつか、いつかと待ってました。
やっと出ましたねMacBook。
とはいえ、すぐに買える余裕は無いんですが。
いつになるかわかりませんが、
必ず購入すると決めています。
今使用しているのは「iBookG3」
このMacBookからみると何世代前になるのかわかりませんが、
恐らくインテルCPUはすごいんでしょうね。
軽く10倍は早いんじゃないでしょうか?

未だにほとんどクラシック環境のソフトを使用している私にとっては
かなりハードルが高いんですが、それを補ってあまりある魅力が満載。
何といっても「BootCanp」
ずっと期待していたマックでのネイティブのウインドウズ環境が実現します。
これでコーエーの「信長」も「三国志」もPC版でリアルタイムにプレイできます。
他にも機能満載ですが、他にも色が「黒」というのがいいですよね。
もう白とが銀のマックに飽きてきたんで、この黒MacBookとてもいいです。
買うなら黒しか無いですね。
早く手にして、使い倒してみたい。

お金貯めないと……。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-21 22:59 | ニュースについて

学校キライ。塾キライ。

「学校ゼンゼン楽しくない。学校キライ。」
今日ある生徒が私に言いました。
「塾の方がまだマシ。でも、塾がスキってことじゃないからね。」
とも言われました。

学校も塾も楽しくないって言うのです。
「じゃあ何が楽しいの?」と聞いたら
「別にない。」と返事。

本当に無いというわけじゃないと思うのですが
自信を持って「これが好き」って言えないのって
寂しいですね。

彼女のお兄ちゃんも以前教えていたのですが
彼はサッカー少年で、
「勉強しないとサッカーさせてもらえない」と
一生懸命勉強していました。
何でも頑張る本当に素晴らしい子だったのです。
すぐ近くに良い見本があるのになあ…。
と思ったんですが、お兄ちゃんもキライなんだそうです。

年ごろの女の子は教えにくいです。
正直言って私は男子を教える方が好きなんですよね。
気を使わなくていいし…。

ちなみに彼女は原始時代に生まれたかったそうです。
理由を聞いたら
「勉強しなくていいから。」だそうです。
とても勉強は出来る子なんですけどね。

原始時代にはそれなりの苦労があると思うんだけど……。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-20 23:07 | 塾の仕事を通じて

心に対する規制

私は広島の人間です。
生まれも育ちも広島でそのことに誇りを持っています。
私は広島が大好きです。
ですから、乗っている車もマツダですし、
プロ野球はカープ、サッカーはサンフレッチェ。
お好み焼きも大好きです。
「信長の野望」は必ず毛利家から始めます。
広島の気候風土のなかで育った自分にとって
広島は最も住み良い最高の街だと思っています。

でもだからといって、別に広島が他の都市に比べて、
素晴らしいとか優れていると考えているわけではないのです。
鹿児島の人が鹿児島が好きなように、大阪の人が大阪を好きなように
新潟の人が新潟を好きなように、北海道の人が北海道を好きなように
私は生まれ育った広島が好きだということなのです。
そういう気持ちは、それぞれの人の中に自然に根付くものだと思うのです。

同じように、日本人が日本を好きだということも、
それぞれの人の心の中に自然に根付くべきものだと私は思います。
今、その日本人の愛国心にまで法で定めようという動きが進んでいます。
「教育基本法」の改正のことです。
日本の子どもたちが愛国心を持つように、教師に指導させようというのが
今回の改正の大きな変更点のようです。
私にはこれが正しいとは思えません。

私は法律の専門家ではありませんが
法律というのはあくまで行為を規制するものであると思っています。
人間の心の中まで法律で定めようなどというのは論外です。
確かに、今の日本人は(特に若い世代は)
日本に対しての愛着のようなものが薄いと思います。
また、私の親や祖父の世代は、戦前の反動で、
愛国心というものをあまりしっかり教えられていない
というのも事実だろうと思います。
でもそれを、国が政策として指導するなど
ということに大変な危惧を感じます。

もう一つ刑法(だったと思います。)に新しく規定されようとしている
「共謀罪」という罪についても同様です。
これは解釈しようによっては、犯罪行為ではなく
犯罪をしたいと考えただけで罪に問えるという決まりです。
法律の解釈次第でかつての「治安維持法」を不回るほどの悪法になる可能性が高いのです。
先程も書いたように法律というのはあくまで行為を規制するものであると思っています。
この「共謀罪」は採用すべきではないと私は思います。

経済に関しては規制緩和が進む中で
私たちが知らないところで
私たちの生活に関する内容ではどんどんそれに逆行するような内容の法律が
作られています。私たちはそれに敏感に反応し、国に対して意見を述べるべきです。
それと同時に報道機関にはしっかりと国の行うことについて報道して欲しい。
報道されなければ私たちには何が起こっているのかさっぱりわからないのです。

私にも子供がいます。
子供の世代に国に監視されて生きていくような生活をさせないように
しっかり国のすることを監視していかないといけません。

憲法(第12条)では「この憲法が国民に保障する自由や権利は、国民の不断の努力によって、
これを保持しなければならない。」と書いてあります。
私は別に護憲論者ではありませんが、国の行いをしっかり知って、賛成できることとできないことを
見極めるべきだと思うのです。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-19 01:17 | ニュースについて

授業時間数

社会科の授業を担当していていつも思うのですが
やはり、中学入試の社会科は、小学生には難解なのです。
それでも、興味のある生徒(男子が多いです)はしっかりきいて
考えてくれますが、興味のない生徒(女子が多いです。)は
つらそうに聞いています。学校くらい授業時間数があれば
駆け足じゃなくいろんなエピソードを交えたり
もっともっとかみ砕いて説明できるのですが
いかんせん授業時間数が足りません。
どうしても最低限必要な知識を駆け足で説明して
駆け足で問題演習をするという形になってしまいます。
興味を持って自分から学習するという形に持って行きにくいのです。

試行錯誤しながら取り組んでいくしかないのでしょうね。

以前勤めていた塾では、中学生を英数中心にするために
他の3科目(国理社)の授業時間数を半減するということがありました。
もちろん国理社の指導者は反対したのですが、そのとき私の上司が
「じゃあ、授業数を二倍したら成績が二倍になるのか?」
と、国理社の指導者を問いつめて、結局削減案を押しきってしまいました。
私は当時カリキュラムの責任者ではなかったので、
発言権が無かったのですが、もし権限があればこう反論したかったです。
「授業数が2倍になっても、成績が2倍になるわけではないが、
それでも、授業内容を説明するのに最低限必要な時間数というのはある。」
今でもこう思っています。

しかし、現実にはそれだけの時間数を確保するのは難しい。
塾に来る生徒も保護者も、消費者のひとりですから、
「少ない時間で大きな効果を出す。」ことを期待しているからです。
ですから塾も企業として、それに応じたカリキュラム構成をせざるをえない訳です。
出来ることなら、生徒に週6日くらい来てもらって、授業数を今の2倍くらいにして
家で勉強しなくても、塾だけで十分力がつくという状態にしたいのです。
ですが実際にはそういうことにはなり得ない。
今できる状態の中で最善を尽くすしかないですね。

「時間がいくらあっても足りない。」のが
いつもの現状です。
「もっともっと教えたい。」と思っていても
子供も他の習い事などで忙しくて、あまり時間を作れない。
ずっと抱えているジレンマです。本当にもどかしい。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-19 01:13 | 塾の仕事を通じて

占い

私は占いというのはあまり信じません。
星座とか血液型とかで人間性が分類できるとは思わないし、
まして運勢や運命がわかるとは思えません。

でも何となく神社に行けばおみくじを引きますし、
テレビの「今日の運勢」などもついチェックしてしまいます。
とはいえ、朝の番組で見た「今日の運勢」もたいていすぐ忘れます。
要するに気にはなるけどあまり重視はしていないわけです。
自分中心に考えてはいけないかもしれませんが、
たいていの人はこの程度の認識では無いのでしょうか?

最近テレビによく出ている細○○子とか、江○○之とか
あきらかにインチキくさい「テレビ占い師」を見ていると
ますますそう感じます。
こういう人たちがテレビでもっともらしいことを言っているのを見るのが
私には不快です。この人達がテレビにでていると
私はたいていチャンネルを変えるか
電源を切ります。

ですが、世の中にはこういう人たちを見るのが好きな人が
かなり多くいるわけですよね。
視聴率が高いからテレビに出ているわけですから。
どういう人が好んで見ているのでしょうね?
ちょっと気になります。
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# by soul_doctor2005 | 2006-05-17 11:09 | 日常の出来事